残雪の白馬岳で僕の心はもう街に向かっていた

昔々、残雪の白馬岳を栂池から往復する計画で出かけました。

コースタイム付き地図はこちら

昔、仲間内の登山記録集に書いた文章をほぼそのまま引用します。若気の至りが満載です。

本文

みぞれ

ここはもう乗鞍岳だろうか?

栂池山荘前のベースキャンプから一時間ばかり登って、岩塊に着いた。祠がある。夏に白馬大池から往復した乗鞍岳山頂はたしかに大岩が積み重なっていた。だが、東側はもっと急な斜面だったはずだ。雪に埋もれたからといって、ここまで地形が変わるはずがない。

登高中、飛雪が弾丸のように吹きおろして、私の顔を打った。顔だけならいいが、眼にとびこむと、痛くてしばらく目をあけられない。ゴーグルをもってこなかったので、サングラスをかけて防いだ。すると雪面の凹凸や地と空の境目がわからなくなって危ない。やはり晴天用にサングラス、風雪用に透明のゴーグルが必要だ。

昨日の夕方から降り出した雪が視界をふさいでいる。雪は湿っており、私の赤いダブルヤッケに付着するとすぐに水滴になった。

白馬大池をさがしに北東に進んだ。背中のサブザックに束ねてさしてある標識を抜いて、ところどころに立てた。この我流の標識は長さが五〇センチ、太さは五ミリ。ミニマム・サイズである。深雪に突き刺して短くなった上に強風にあおられると、その穂先は雪面につかんばかりだ。材料は細く割った竹で、木工用のものを東急ハンズで買った。都会では生竹を調達するのは難しい。先端には赤布のほかにオレンジ色の蛍光テープをつけた。これはよく目立つ。高価なので一本につき一〇センチ程度しか使えなかったのが残念である。単独行なので、重量も予算も切詰めざるを得ない。

いったん撤退

雪原をさまよううちに、天狗原に着いたにすぎないとわかった。乗鞍岳の大斜面にとりつく。視界が悪い。栂池から乗鞍岳へは未知のコースなので、勘を頼りにするにも限度がある。降雪直後で雪崩の心配もあった。足元はたしかだが、上の方の具合はわからない。頭上におおいかぶさるようなシュカブラが不気味だ。二つ標識を立てたあたりで引き返すことにした。

オーバー手袋の縫い目から水気が侵入して中の手袋を濡らしていた。下着は湿り、靴の中も嫌な感触がする。

ベースキャンプ付近まで下ると穏やかだった。栂池山荘の屋根の雪が溶けて、軒先から威勢よくしたたり落ちている。私は天幕にもぐりこんで、ガスコンロを燃やしつづけた。衣類が生乾きになったころには、カートリッジの中身はシャカシャカと軽い音をたてるだけになっていた。まだ水を作らなくてはならないのに。いや、それは計算ずみだ。山荘の屋根からしたたり落ちる水を使えばいいのだ。

ところが、衣類を乾かしたり温かいものを飲んだりしているうちに気温が下がっていた。締め付けの悪い蛇口ほどにしか、もう落ちていない。ポリタンクにやっと一リットルほどためた。
天気図をつけてみると、二つ玉低気圧が仲良く手をつないで日本列島を通過しているところだった。最悪だ。

眠れない夜

さて、明日はどうする。燃料は朝までしかもたない。好天だったらアタックして、その足で下山するか。よし、6時までにパッキングをすませ、アタック用のサブザックを一番上にのせる。それから気象通報をきいて行動を決めるのだ。

夜11時に目が覚めた。
全身がじっとり湿っている。脚は完全に濡れている。
ろうそくに火をつけた。その熱でソックスを乾かそうとする。

加藤文太郎は『単独行』の中で書いている。(正確には、藤木九三が序文で引用した文)

雪の山で小屋場に着いた時など、そして蒔や炭が得られない場合、メタなりアルコールなりを燃やして暖かいものを摂ることの有利なのは解り切っているが、吹雪のはなはだしい夜などチロリチロリと燃える焔を見詰めているだけでもどれだけ気が引き立つか知れない。そして僅かな暖かみを利用して濡れた手袋でも乾かそうと努力することによって、常に生気を取り戻すことができる。

私の場合、濡れたのは気温が高いためだから、こうして天幕に横になっていてもさして寒くない。

「夜が明けるなり天幕をたたんで栂ノ森に下り、高速ゴンドラ《イブ》で下界に戻る。暖かいコタツに脚を突っ込んで、テレビでも観ながら、うまいものを飲み食いする」

その計画が頭を占領した。今回は不安材料が多い。出発の前にひどい風邪をひいて、丸五日間運動ができなかった。準備がはかどらず、一日出発を延ばしたために、4月2日、3日の好天を逸して、最悪の天気にめぐり合わせた。燃料も足りない。ゴーグルがないのも痛い。今回は実験的に荷物を切り詰めようとしたのが災いした。いつもは特大のキスリングに大雑把に荷物を詰めてくるのを、55リットルのアタックザックに納めようとした。これは無理だった。私の装備はやや時代遅れで、重くてかさばる。結局、はみだした分をズタ袋に詰めてザックの上に載せた。それでも足りずに、天幕一式を詰めたサブザックを追加しなくてはならない。これは背負うとすぐに荷くずれした。中途半端な軽量化はするべきではない。

考えれば考えるほど、気が滅入った。下山したほうがいい理由はたくさん見つけることができた。それは、ある種の人々が登山の計画を見送り続けて、ついには日常生活から脱出しようとしなくなるのと同じ理由なのだが……。

もう食料を節約する必要がなくなったので、なにやかやと口に放り込む。乾いたソックスはない。登山靴も水を吸ったままである。ダブルヤッケも湿気ている。これでは風雪の中を行動できるわけがない。

私は湿った寝袋の中でぐったりとしていた。
「下山しよう。そして列車の中でゆったりと眠るのだ」
明け方、最後のコーヒーのためにお湯を沸かしているとき、とうとう火が消えた。

のろのろと荷物を整理する。
私は天幕場の前をぶらぶらと歩き回った。これで良いのだろうか。アタック用の装備を詰めたサブザックは用意してある。最後まで諦めなかったという証拠品だ。あとは天幕をたためば、いつでも下りて行ける。
私の心はもう街に向かっていた。こうして決断を引き延ばしているのは、一抹の不甲斐なさを感じているからだ。

翻意

急にガスが巻き上がった。真横から陽光が差し込み、雪面がまばゆく輝く。上空には青空が見え隠れしていた。乗鞍岳の稜線は雪煙におおわれている。
天候は回復したのか。だとすると下山する理由が一つ減ったことになる。
「しかしヤッケが濡れている」
と私は自分に言い聞かせた。
すると、
「予備のシングルヤッケを着ればいい」
と別の私が指摘した。
「靴とソックスが濡れている」
「天気がいいから、行動中に乾いてしまうだろう」
「それから−−」
たくさんあったはずの理由を思い出すことができなかった。

白い嵐

私は白い嵐の中を登りつづけた。

乗鞍岳の大斜面は上に行くにしたがって斜度が増した。点々と標識を立てていく。ときおり烈風に対抗するためにふんばった。と言うよりも登高がことのほかキツいので、そうやって休んだ。病み上がりなので、いまひとつ力が出ない。この高さだと、すこしは酸素が薄いのかもしれない。それでなくとも、左正面からの吹き下ろしでまともに息ができなかった。

やっとたどり着いて、頂上(2437m三角点)と思ったところはまだ肩だった。右の前方、雪煙の彼方に頂上岩塊がある。あと二百メートルほどだったが、実におっくうだった。こんな調子では白馬岳ははるか射程圏外だ。

時間かせぎにカメラを取り出した。ピッケルに雲台をセットしてセルフタイマーで自分を撮る、という面倒な作業はとてもやる気にならない。手にもったカメラを前方に差し出し、“手三脚”で撮ることにした。

風下を向く。背中の着衣は風圧でぺちゃんこになる。目出し帽の顎下の部分がやけにゴワゴワするな、と思ったら凍っていた。カメラのシャッターを押すために右のオーバー手袋をはずし、左脇にはさもうとした。

そのとき突風がオーバー手袋をさらった。一歩も追いかけなかった。それほどあっという間に雪煙の向こうに消えた。

私はしばらくその方を見つめていた。
なぜかさっぱりとした気分だった。
乗鞍岳頂上を踏んで“形をつくる”必要さえ感じない。

写真を何枚か撮ると、左のオーバー手袋を右手にはめかえた。帰りは右が風上だし、ピッケルを持つのも右手である。
踵を返して、斜面の突端に立つ。
登って来たときの足跡はもう消えていた。

あとがき

オーバーミトンに焦点をあてて、こんな記事を書きました。

登山オーバーミトン~白馬岳で吹き飛ばされた
自分が過去に経験したなかで最大級の強風。予期せぬ突風が脇に挟んだオーバー手袋を吹き飛ばしました。それはもう追いかける気が起きないほど一瞬で視界から消えました。

リベンジを試みましたが、返り討ちに会いました。

ぐうたら登山隊と風雪のビヴァーク
すっかり暗くなりました。これ以上動き回るのは危険です。吹きさらしの稜線で、ケルンに腰掛けて、ツェルトをかぶりました。「風雪にとじこめられても、二泊はもつだろう。でも、三泊目はないかな」なんて考えました。

その後、乾いた岩でのクライミングに傾倒し、四半世紀をへて……。

残雪の白馬岳を24年後に登る【入山編】2018年3月26日
よもや雪山テント泊の装備を背負って、この栂池ゴンドラリフト「イヴ」に再び乗り込む日が訪れようとは考えもしませんでした。前回訪れたのは24年前です。

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