
高齢者の山岳遭難が報じられるたび、世間からは厳しい声が上がります。
「いい歳をして周りに迷惑をかけるな」
「税金を使ってヘリコプターを飛ばすなんてけしからん」
「自分の体力の衰えをわきまえるべきだ」
こうした言葉には、たしかに正論らしい響きがあります。登山には危険が伴い、救助には人員も費用も必要です。年齢にかかわらず、体力に見合わない計画や不十分な装備、無理な続行が批判されることはあるでしょう。
しかし、その一方で見落とされているものがあります。
寝たきりや生活習慣病によって長期的な医療や介護を必要とする人が増えれば、その負担は本人や家族だけでなく、社会全体に及びます。そう考えれば、登山ができるほど心身の活動性を保ち、日頃から体を動かし続けている高齢者の存在は、本来、社会にとって歓迎すべきもののはずです。
「見える救助費用」と「見えない社会的便益」

人間の目は、悲しいかな「実際にかかった費用」には敏感ですが、「かからずに済んだ費用」にはひどく鈍感にできています。
高齢者の登山が批判されやすい大きな理由は、社会的コストの見え方にあります。
遭難に伴ってヘリコプターが飛び、救助隊が出動すれば、その光景はニュース映像とともに鮮やかに可視化されます。ローター音、担架、険しい山中へ向かう救助隊員。そこには誰の目にもわかる「費用」と「危険」があります。
しかし、それだけを高齢登山者の社会的な損失のすべてとして扱うのも、正確ではないでしょう。
その人が山を歩き続けるために日頃から体を動かし、脚力や心肺機能を保ち、外出や人との交流を続けてきた結果として、医療や介護をどれだけ遠ざけてきたのかは、誰の目にも見えません。
寝たきりにならずに済んだこと。
通院や介護の開始が数年遅れたこと。
自分の足で出かけ、人とのつながりを保てたこと。
こうした恩恵は、事故が起きなかったからこそニュースになりません。
一方で、遭難時の救助費用は、ヘリコプターのローター音とともに強烈な印象を残します。そのため私たちは、目の前の「見える赤字」に過剰反応し、その背後に積み重なってきた健康維持という「見えない黒字」を忘れてしまいがちです。
元気な高齢者は、医療費を抑えるだけの存在ではない

活動的な高齢者は、単に医療や介護の負担を先送りしているだけではありません。
登山靴やウェアを買い替え、地図や装備をそろえ、電車やバスを利用して登山口へ向かいます。ときには山小屋に泊まり、下山後には温泉に入り、地元の飲食店で食事をします。
登山は、都市から地方へ人とお金を運ぶ行動でもあります。
とりわけ人口減少が進む山間地域にとって、繰り返し訪れてくれる登山者は大切な利用者です。若者だけでなく、時間と一定の消費余力を持つ高齢者が山を訪れることは、交通、宿泊、温泉、飲食、小売といった地域の経済を支える力になります。
また、活動的な高齢者は、地域社会のなかでも受け身の存在ではありません。
家族や友人と出かけ、経験を伝え、後輩を支え、ときにはボランティアや地域活動にも関わります。健康で外に出ていること自体が、人とのつながりを維持し、孤立を遠ざける役割を果たします。
「全員が安全な茶の間にこもり、静かに衰えていく社会」と、「一定のリスクを引き受けながらも、多くの人が自分の足で歩き、外出し、消費し、人と関わり続ける社会」。
社会全体にとって望ましいのは、案外、後者のほうではないでしょうか。
問われるべきは年齢ではなく、準備と判断である

もちろん、健康維持や地域消費への貢献が、無謀な登山の免罪符になるわけではありません。
年齢にかかわらず、体力に見合わない計画を立て、悪天候の予報を無視し、必要な装備や撤退基準を欠いたまま山へ入れば、批判される余地はあります。
しかし、そこで本来問われるべきなのは、「何歳であるか」ではなく、「どのような準備と判断をしていたか」です。
若者が無理をすれば「冒険心」や「経験不足」として語られ、高齢者が同じ失敗をすれば「年寄りは山に来るな」と年齢そのものを責められる。
もしそうであるなら、その批判には安全論とは別の偏見が紛れ込んでいます。
年齢が上がれば体力や回復力が低下しやすいのは事実です。持病や服薬、転倒時の重症化といった問題もあります。だからこそ、高齢登山者には若い頃以上に慎重な計画、装備、撤退判断が求められます。
けれども、それは「高齢者は登るべきではない」という結論を意味しません。
自分の変化を把握し、行程を調整し、必要なら引き返す。そうした判断を重ねながら山を続けることは、老いを否認する行為ではなく、むしろ老いと折り合いをつけながら生きる実践ではないでしょうか。
結論

目先の救助費用という一過性の出費だけを切り取り、高齢者の登山が社会にとって損か得かを決めるのは、あまりに視野が狭いのではないでしょうか。
その人が山を続けるために日々歩き、体を鍛え、外出し、人と交流し、地方へ足を運び、長年にわたって自立した生活を送ってきたこと。
その積み重ねによって、どれだけの医療や介護が遠ざけられ、どれだけの地域消費が生まれ、どれだけの生きがいと社会参加が保たれてきたのか。
安全な部屋のモニター越しに冷たい言葉を打ち込む手を少し休め、社会全体という大きなパノラマを見渡す想像力を持ちたいものです。
「老人が元気なことは、大いに結構である」
いつか私たちも確実に手にする「高齢者」という切符の居心地を、自ら悪くしないためにも。
今日もどこかの山頂で、元気におにぎりを頬張る先輩方に、もう少しだけ大らかなエールを送ろうではありませんか。




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