
夏といえば海、そして山です。この季節になると、ニュースでは決まって水難事故や山岳遭難の報が飛び交います。
奇妙なのは、同じ「自然の中でのトラブル」であるにもかかわらず、ニュースに向けられる世間の目が、海と山でまるで違うということです。
波に飲まれた人には「かわいそうに」と同情の涙が流れる一方で、富士山で高山病や疲労に倒れた人には「自己責任だ」「救助費用を払え」と無数の石が投げつけられます。
この不条理な温度差は、一体どこから来るのでしょうか。
海と山で逆転する「コストとリスク」

世間の人々が富士山の遭難に怒る理由としてよく挙げるのが、「税金の無駄遣いだ」「救助隊員が命の危険に晒されて迷惑だ」というものです。なるほど、一見するともっともらしい正論に聞こえます。
しかし、その論理をそのまま「海」に当てはめてみると、奇妙な矛盾に突き当たります。
海難救助では、状況によって巡視船や航空機、潜水士など、多くの人員と装備が投入されます。荒れる海や離岸流の中に入る救助者には、自らも水に巻き込まれる二次遭難の危険があります。
一方、夏の富士山で起きる救助のすべてが、大規模なヘリ救助ではありません。現地に配置された救助隊員が登山道を歩いて接触し、消耗した登山者に付き添って下山する事例もあります。
もちろん、それも大変な任務です。しかし、救助にかかる費用や危険だけで比較するなら、海の事故が常に軽く、富士山の遭難が常に重いとは言えません。
それでも、海の事故は「痛ましい悲劇」として受け止められ、富士山の付き添い下山は「社会に迷惑をかけた大罪」として吊るし上げられる。
世間の怒りは、どうやら計算機で弾き出した数字や、客観的なリスクに向いているわけではないようです。
許される溺水、許されない高山病

この矛盾を解き明かす鍵は、平地で暮らす人々が「他人の苦痛をどう想像するか」という点にあります。
溺れている人は、誰の目から見ても「死の恐怖と戦っている」ことがわかります。必死にもがき、息をしようとする姿は、安全な場所にいる人々の生存本能をも揺さぶり、無条件の同情を呼び起こします。「十分に苦しんでいる」と認められるため、救助される権利がすんなりと与えられるのです。
ところが、高山病のメカニズムを知らない人々の目には、富士山で動けなくなった登山者はどのように映るでしょうか。
多くの場合、彼らはただ座り込み、あるいは横たわっています。見えない低酸素と戦い、脳や肺が悲鳴を上げているにもかかわらず、外見上は「歩くのをサボって休んでいる」ようにしか見えません。
同じことは、高山病に限りません。転倒して足を傷めた登山者は「少しくらい歩けるだろう」と思われ、悪天候と疲労で行動不能になった人は「ただ休んでいるだけ」に見えます。しかし山では、歩行速度の低下が日没を招き、雨や風による冷えが低体温症へ進み、判断力を失った末に道迷いや転落を引き起こします。外からは静止しているように見える人が、実際には刻一刻と死へ近づいていることがあるのです。
登山に興味のない世間一般の常識という色眼鏡を通せば、こうした見えない危機は「甘え」に変換されてしまいます。他人の苦痛が自分の理解できるフォーマットで提示されないと、それを単なる「怠慢」だと解釈してしまう。それは人間の持つ、少しばかり残酷な想像力の限界なのかもしれません。
ルサンチマンという名の「正義」

そして、ここにネット社会特有の「ルサンチマン(怨恨・嫉妬)」が合流します。
正義の剣というものは、往々にしてエアコンの効いた安全なリビングで最も鋭く研ぎ澄まされるようです。日々の生活で理不尽な仕事や疲労にじっと耐え忍んでいる人々にとって、趣味の場で「疲れた」とあっさり弱音を吐き、公的な力に助けてもらう人間の存在は、自らの我慢を愚弄されているように感じられるのでしょう。
「自分はこんなに我慢しているのに、あいつは遊びに行って甘えている」
その鬱屈とした感情が、「自己責任」という非常に便利な、そして誰も反論しにくい正義の衣をまとって一斉に火を噴く。
もちろん救助隊員の安全や公費を本気で案じる声もあるでしょう。しかし、それだけなら、遭難者の人格を罵倒したり、「助けなければよかった」「勝手に死ね」とまで言い募る必要はありません。
言葉がそこまで過激になるとき、その源泉は安全への懸念ではなく、助けられた人間に追加の罰を与えたいという懲罰感情です。
これこそが、富士山に蔓延るバッシングの正体だと思えてなりません。
「死」をもって精算される不条理

客観的なコストやリスク以外の要素を突き詰めると、世間の持つもうひとつの冷酷な本質に行き当たります。
なぜ、海難事故の遭難者は、富士山の生還者ほど激しく責め立てられないのでしょうか。
海難事故では、遭難者が命を落とすことが少なくありません。世間は無意識のうちに、「遭難者は『死』をもって己の過ちを償った」と解釈しているのではないでしょうか。
命を落としたのだから、これ以上の追及はすまい。
一見すると慈悲深い態度です。しかし、その裏には、「死」という究極の代償を支払わせることで勝手に納得し、溜飲を下げる大衆の残酷な心理が透けて見えます。
逆に、夏の富士山で救助された登山者は、生きて帰ってきます。自らの限界を超え、公的な力に助けを求めた。それにもかかわらず、死という代償を支払わずに生還した。
その事実が、一部の人には「罰が足りない」と映るのでしょう。だからこそ、「救助費用を全額払わせろ」「二度と山に登らせるな」「実名を公表しろ」と、次々に追加の制裁が要求されます。
遭難者が反省すべきことと、その人が生き延びてよいことは、本来まったく別の話です。しかし世間は、ときに失敗した人間が無事に帰ってくることを許しません。命を失わなかったのなら、せめて社会的な罰を与えなければ気が済まない。
その倒錯した懲罰感情が、「自己責任」という言葉の陰から顔をのぞかせるのです。
まとめ――「自己責任」という暴力的な免罪符

この残酷な心理は、閉山期の富士山や冬山へ向かう登山者に対する世間の目にも、はっきりと表れています。
過酷な雪山を知る者であれば、悪天候による疲労や低体温、視界不良の中での道迷い、凍結した斜面での転倒や滑落が、いかに容易く死へつながるかを知っています。
それでも世間の一部は、「好きで行くのだから、勝手に死ねばいい」と平然と言い放ちます。生き延びれば「甘えるな」と石を投げ、命を落とせば「自業自得だ」と冷笑する。
そこにあるのは、安全な登山を願う気持ちでも、事故の再発防止でもありません。他人の生死を「対岸の火事」として切り離し、安全な場所から消費する態度です。
私たちが本当に恐れるべきものは、大自然の猛威だけではありません。他者の苦痛を、自分に理解できるかどうかだけで裁くこと。他者の生死さえ、自分の鬱屈した感情を処理するための記号として消費してしまうこと。
その底知れぬ無関心と冷酷さこそ、私たち自身の足元に口を開けている、もうひとつの遭難なのかもしれません。


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