99歳の富士登山は是か非か

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福島県から訪れた99歳の女性が、富士山で負傷し、救助隊によって無事に下山させられたというニュースがありました。

ネット上では、「無謀だ」「迷惑だ」「もう登山などさせるべきではない」と、なかなかに喧しい議論が交わされているようです。

ですが、少しだけ立ち止まって、一緒に考えてみてはどうでしょうか。

この複雑な問題を、「自己責任」という便利な四文字だけで片付けてしまって、本当によいものなのかを。

88歳からの「手習い」という途方もない覚悟

報道の断片から彼女の足跡をたどりますと、いわゆる「長年のベテランアルピニスト」というわけではないようです。

ここでは仮に、彼女をトメさんとお呼びしましょう。驚くべきことに、トメさんが富士登山を始められたのは88歳の時だといいます。

それから毎年、息子さんとともに富士山へ通い続けている。しかも、登りと下りを合わせて11泊という、気の遠くなるような時間をかけて歩かれるのだそうです。

弾丸登山が問題視される昨今において、11泊という時間を惜しみなく使い切るその歩みは、もはや単なる登山の記録ではありません。

老いによって狭まっていく身体の自由に抗いながら、なお自分の足で高みを目指す。それは登山というより、壮大な「生への巡礼」であるようにすら思えます。

歩みは遅いかもしれません。しかし、その遅さを笑う資格が、私たちにあるでしょうか。

そこには、若さに任せて駆け上がる登山とはまったく異なる、老いと折り合いをつけるための現実的な戦略と、途方もない覚悟があるはずです。

今回、転倒という不運なアクシデントによって、その歩みは途中で止まってしまいました。けれども、その営みそのものを「無謀」と嗤うことは、おそらく誰にもできないでしょう。

お怪我がすっかり癒えた暁には、ぜひまた百歳の頂を目指していただきたい。そう密かにエールを送りたくなるのは、私だけでしょうか。

功利主義という名の現代病

この一件に対し、「救助が無料であることがモラルハザードを生み、無謀な登山を誘発する。だから救助は有料化すべきだ」と説く経済評論家の方もおられました。

なるほど。

平地の制度論として眺めるぶんには、まことに整然とした理屈です。

しかし、標高3000メートルを超え、空気が薄くなり、気力も体力も削られていく岩肌の上で、「いざとなればヘリが無料だから、もう一歩進もう」などと、浅ましいそろばんを弾きながら歩を進める人間が、果たしてどれほどいるでしょうか。

もちろん、無計画な登山を肯定したいわけではありません。救助には人員も費用も必要ですし、救助隊員の方々が危険を引き受けてくださっていることも忘れてはなりません。ですが、人間が山へ向かう理由まで、経済合理性の計算式で説明できると思い込むのは、いささか人間というものを見くびりすぎてはいないでしょうか。

トメさんの背中を押していたのは、損得勘定ではありません。

「どうしても登りたい」

ただ、その一念だったはずです。

人間の情熱から生じる判断の揺らぎを、すべて制度設計や費用負担の枠組みだけで処理しようとする。それは数字の辻褄に気を取られるあまり、「人の体温」を見失ってしまうような、どこか寒々しい想像力の欠如に思えてなりません。

人間は、損得だけで生きているのではありません。ときに非合理だからこそ、山に登る。ときに割に合わないからこそ、人生を懸ける。

その不合理さまで削ぎ落としてしまった社会は、なるほど事故は少ないかもしれませんが、果たして生きるに値するほど豊かな社会なのでしょうか。

運転免許の返納と同列に語れるか

また、ネットの海を漂っていると、この一件を高齢者の運転免許返納に例え、

「一定の年齢になれば、運転と同様に登山も一律にやめさせるべきだ」

と主張する声も散見されます。

なるほど、老いによって危険が増すという点だけを切り取れば、似たような構図に見えるのかもしれません。

しかし、少しばかり虫眼鏡のピントをずらしてみると、この二つは根本的な性質を異にしています。

自動車の運転とは、一歩操作を誤れば、まったく無関係な第三者の命を直接奪いかねない「鉄の塊」を操る行為です。そこには、日常的な操作ミスが即座に他者への加害につながるという、強烈な社会的リスクがあります。

だからこそ、社会全体で厳格に管理し、場合によってはその権利を制限することもやむを得ないわけです。

一方で、登山はどうでしょうか。

もちろん、遭難すれば救助者や同行者を危険にさらす可能性があります。落石や道迷いによって、周囲に影響を及ぼすこともあるでしょう。

決して「本人だけの問題」ではありません。しかし、それでもなお、自動車運転のように、日常的な一瞬の判断ミスが見ず知らずの第三者を即座に死傷させる構造とは異なります。

登山における危険の中心は、あくまで本人自身の身体に向かいます。

その違いを無視して、年齢だけを理由に一律の禁止へ飛躍するのは、社会の安全を願うあまり、かえって社会の寛容さを削り取ってしまうような、いささか乱暴な発想に思えてなりません。

危険がある。だから禁止する。

その論理をどこまでも突き詰めれば、老いた人間は、転倒するから外を歩くな事故があるから旅行をするな迷惑をかけるから挑戦するな、ということになってしまいます。

それは安全なのでしょう。けれども、その安全は、しばしばヒトの尊厳と引き換えに手に入れられます。

「引き際」は誰のものか

とはいえ、「なぜ山小屋で休んだあとに引き返さなかったのか」という、撤退判断への批判も多く見受けられます。

また、「もうそんな年齢なのだから、登山自体をやめるべきだ」という厳しい声があることも事実です。

確かに、登山の鉄則から言えば、負傷時の下山は絶対のセオリーです。年齢による回復力や判断力の低下を危惧する声も、理解できないわけではありません。

しかし、今回の撤退判断にせよ、年齢的な限界という人生の大きな選択にせよ、人間の「引き際」というものに、万人が納得する客観的な指標など存在するのでしょうか。

血中酸素濃度や歩行ペースだけで、一律に測れるものではありません。「何歳になったら諦めなさい」と、法律で決められるものでもありません。

もちろん、登山は本人だけで完結する行為ではありません。同行者や救助者にどれほどの危険を引き受けさせるのかについて、本人には重い責任があります。だからこそ、計画を立てる必要がある。体調を見極め、装備を整え、撤退基準を考え、必要であれば専門家の力を借りる必要がある。

しかし、その責任を認めることと、人生の最終決定権まで本人から取り上げることは、まったく別の話です。

どこまで進み、どこで鉾を収めるか。その最終的な決断の主体は、やはり本人であるべきです。なぜなら、それは単なる登山計画ではなく、その人が自分の人生をどう生き切るかという問題だからです。

安全な下界から、「ここで引くべきだった」「もうやめるべきだった」と裁くのは簡単です。

しかし、私たちも皆、いつかは否応なしに人生の撤退戦を強いられます。

仕事を辞める時。車を手放す時。住み慣れた家を離れる時。一人で歩けなくなる時。誰かの手を借りなければ、生きられなくなる時。

その時、自分の引き際を、会ったこともない他人の多数決で決められたいと願う人間が、果たしてどれだけいるでしょうか。

老いとは、若者が外側から眺める事故ではありません。私たち全員が、いずれ必ず当事者になる道です。だからこそ、老いた人の挑戦を嗤うことは、未来の自分自身を嗤うことでもあるのです。

尊厳と安全を両立する「最適解」

もちろん、救助隊員の方々が背負うリスクや、社会への負担を完全に無視してよいわけではありません。

人間の尊厳と、他者への影響のバランスを、どう取るのか。

この難題に対し、ネットの海で見かけた、とある名もなき先達のコメントが、非常に腑に落ちる提案をしておられました。

「いざという時に背負って下ろせるレベルの、屈強なプロの登山ガイドを同行させる」

これこそが、ひとつの優れた落としどころではないでしょうか。

もちろん、ガイド一人に、富士山の上部から成人一人を文字どおり背負って下ろすことを当然の義務として課すわけにはいきません。

人ひとりを長距離搬送する行為は、ガイド自身にとっても極めて危険です。

重要なのは、「背負って下ろす」という言葉の字面ではありません。それほどの体力、経験、判断力を備えた専門家が、行程全体を管理することです。

歩行状態を観察する。酸素や天候を判断する。本人や家族が進みたがっても、必要なら撤退を勧告する。歩けなくなれば、複数人での介助や救助要請へ早い段階で切り替える。そのための費用を、挑戦する側が事前に引き受ける。

ペナルティとしての「救助有料化」は、結果として弱者から挑戦の機会を奪うだけになりかねません。資力のある者だけが助けられ、助けを呼ぶことをためらった人が、より深刻な事態に陥る危険もあります。

しかし、「ガイド雇用を前提とした自己負担」であれば、話は違います。社会に過度な負担をかけず、冷静な撤退判断を専門家の目に委ねることができます。

何より、挑戦そのものを罰するのではなく、挑戦を続けるための責任ある仕組みへと変えることができます。

「老いたから、挑戦するな」
そう言うのではなく、
「挑戦するなら、より多くの備えを持とう」
それでよいのではないでしょうか。

若者と同じように登れないからといって、山へ向かう資格まで失うわけではありません。必要なのは排除ではなく、方法の更新です。

結びにかえて

「人に迷惑をかけてはいけない」

まことに正しい教義です。

しかし、それを突き詰めてしまえば、私たちは皆、生まれた瞬間から息を引き取るまで、絶えず誰かしらに迷惑をかけ続けて生きる存在です。

赤ん坊は泣きます。病人は看病されます。老いた人は支えられます。

そして若く健康な人でさえ、事故に遭い、病気になり、判断を誤り、誰かの助けを借ります。

誰にも迷惑をかけない人間など、この世に一人もいません。

だから社会とは、迷惑を完全に排除するための装置ではなく、互いの迷惑を引き受け合いながら、それでも人間らしく生きるための仕組みであるはずです。

99歳の富士登山を、「迷惑行為」と一刀両断するのはたやすいでしょう。

しかし、必要な費用を負担し、プロの技術を借り、撤退の判断を第三者に委ねる備えさえあるのなら、人は何歳になっても、自分の限界に挑んでよいはずです。

老いをただ安全な場所に隔離するのではなく、老いてなお、自分の足で前へ進む権利を守る。それは高齢者だけのためではありません。やがて老いていく、私たち自身のためでもあります。

人間は、安全であるためだけに生きているのではありません。

見たい景色がある。立ちたい場所がある。もう一度だけ、あの頂へ行きたい。

そんな思いに突き動かされて生きるからこそ、人間なのではないでしょうか。

したたかに。周到に。そして少しばかりのユーモアを持って。

何歳になっても挑戦し続けられる社会のほうが、歩いていてずっと見晴らしがよい。

私は、そう思います。

四方山話
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