
山岳遭難のニュースが流れると、決まって現れる言葉があります。
「自己責任だ」
「救助隊員を危険にさらすな」
「そんな登山者は放っておけばいい」
遭難者を批判するだけなら、まだ話は単純です。ところが、いつの間にか救助隊員まで壇上に引っ張り出されます。
「救助隊員は迷惑している」
「無謀な登山者のせいで命を危険にさらされている」
本人たちが何も語っていないのに、その胸中まで代弁されます。
もちろん、山岳救助には危険があります。しかし、その危険を理解することと、救助隊員の名前を借りて遭難者を罵倒することは別の話です。
本当に救助隊を尊重するなら、まず彼らを、私たちの処罰感情の代弁者に仕立てないことです。
「救助隊員を危険にさらすな」という便利な正義

「救助隊員を危険にさらすな」という言葉は、一見すると正論です。
誰だって、救助隊員に死傷してほしくありません。遭難者を救うために、別の犠牲者が出てよいはずもありません。
ただし、この言葉はしばしば、救助活動の安全を論じるためではなく、遭難者を処罰するために使われます。
本当に隊員の安全が問題なら、
「どのような条件で出動を見合わせるのか」
「二次遭難を防ぐ仕組みはどうなっているのか」
「装備や訓練は十分なのか」
という議論に向かうはずです。
ところが、実際には「そんな人は助けなくていい」という結論へ飛びがちです。
救助隊員の安全を心配しているというより、気に入らない遭難者を罰したい。そのとき、「隊員の危険」はたいへん便利な理由になります。
正義は便利ですが、便利な正義ほど取り扱いに注意が必要です。
救助隊は、命知らずの集団ではありません

救助要請が入ると、隊員がどんな悪天候でも山へ飛び込んでいくかのように想像されることがあります。しかし、山岳救助は勇気だけで成り立つ仕事ではありません。
実際の救助では、気象、地形、視界、積雪、雪崩、落石、日没、隊員の体力、航空機の運航条件などを見て判断します。
進めなければ待機する。
接近できなければ別の方法を探す。
継続が危険なら撤退する。
ヘリが飛べなければ地上隊を検討し、それも難しければ条件の回復を待つ。
救助隊は、何が何でも突入する集団ではありません。むしろ、進まない判断をするためにも専門性があります。
「無謀な登山者が救助隊を無謀な行動へ引きずり込む」という単純な図式は、救助隊の専門性を低く見積もっています。
遭難者の人格と、救助の必要性は別です

装備不足、判断の甘さ、警告の無視、同じ失敗の繰り返し。
そうした遭難者に対して、救助隊員が苛立つことはあるでしょう。救助隊員も人間ですから、いつも寛容な聖人である必要はありません。
しかし、遭難者に好感を持てるかどうかと、救助するかどうかは別問題です。
無謀運転による事故にも救急車は来ます。火の不始末をした家にも消防車は向かいます。公共の救助は、善人だけに与えられる褒賞ではありません。
準備不足だった。
軽率だった。
社会に負担をかけた。
そうした責任は、救助後に検証すればよいのです。保険制度や費用負担を議論してもよいでしょう。立入規制の無視や悪質な虚偽通報には、相応の責任を求めてもよいと思います。
しかし、「責任がある」ことと「助けなくてよい」ことは同義ではありません。
自己責任とは、失敗した者を見捨てるための言葉ではありません。自分の選択が招いた結果を受け止め、必要な責任を負い、次の行動を改めることです。
救助隊員の感情を美化する必要もありませんし、「迷惑しているに決まっている」と決めつける必要もありません。重要なのは、救助の可否が、遭難者への好悪ではなく、安全基準と任務によって判断されることです。
軽度の救助は、本当に「無駄な出動」なのか

付き添い下山や、好天時のヘリ救出が報じられると、
「そんなことに税金を使うな」
という声が上がることがあります。
もちろん、遭難は起きないに越したことはありません。しかし、比較的軽度な救助を、ただちに無駄と決めつけるのも早計です。
付き添い下山ひとつをとっても、
どこまで歩けるのか。
体調は悪化していないか。
日没までに下山できるか。
途中で搬送に切り替える必要はないか。
といった判断が続きます。
派手に吊り上げる場面だけが救助ではありません。「歩ける人を安全に歩かせて下ろす」という地味な仕事にも、観察と判断があります。
また、実際の出動では、隊員が現場へ移動し、要救助者と接触し、無線で連絡し、地上隊や航空隊と情報を共有します。
要救助者の説明が曖昧かもしれません。通信状態が悪いかもしれません。途中で体調が変わるかもしれません。
そこには、訓練では完全に再現できない不確定要素があります。
遭難者を訓練材料と呼びたいわけではありません。しかし、比較的危険度の低い出動が、結果として実地演習に近い役割を果たすことはあるでしょう。
手順を確認する。
装備や通信を検証する。
若手に経験を継承する。
関係機関との連携を保つ。
重大事故のときだけ突然、意思疎通が滑らかになり、機材が素直に動き、判断力が研ぎ澄まされるわけではありません。
救助隊は、出動しない日にも費用がかかっています

山岳救助が行われると、
「たった一人のために、これだけの税金が使われた」
と批判されることがあります。
公費で運営される以上、費用を検証することは必要です。ただ、その計算では、救助隊が出動しない日にも費用がかかっていることが忘れられがちです。
遭難がない日にも、隊員は配置されています。訓練を行い、装備を点検し、車両や航空機を整備し、通信体制を維持しています。
私たちが税金で維持しているのは、一回ごとの救出作業だけではありません。事故が起きたときに動ける能力そのものです。
ところが遭難報道では、出動した瞬間にだけ大きな費用が発生し、それまでは一円もかかっていなかったかのように語られます。
救助隊員が普段は倉庫に収納され、通報が入ると箱から取り出されるのなら、その計算でもよいでしょう。実際には、いつでも動ける状態を保つため、平時から人と装備が維持されています。
もちろん、出動すれば燃料や消耗品などの追加費用はかかります。すでに予算を使っているから、何度出動しても同じだという話ではありません。
しかし、救助一件の追加費用だけを見て、救助全体を浪費と呼ぶのも正確ではありません。
救助体制は、救助しないために維持されているのではありません。必要なとき、安全を見極めながら実際に救助するために維持されています。起きた遭難に対応することは、予算の想定外ではなく、本来の用途です。
おわりに――救助隊は、私たちの怒りを救助しません

救助隊員の安全は、守られなければなりません。
だからこそ救助組織は、進む基準と退く基準を持ち、訓練を重ね、二次遭難を避けようとします。
救助は危険です。しかし、危険だからこそ専門家がいます。
出動するか。
待機するか。
進出するか。
撤退するか。
その判断を下すのは、インターネットのコメント欄で吠える人たちではありません。現場の情報を持ち、訓練を積み、結果に責任を負う救助組織です。遭難者の行動は、あとから厳しく検証すればよいでしょう。必要なら責任も問えばよい。
救助隊員の危険を心配することは大切です。だからこそ、その危険を、遭難者叩きの道具にしないよう肝に銘じたいものです。




コメント