
かつて、日本の山岳シーン、とりわけ北アルプスの涸沢カールや剱沢の野営場において、ある種の「権威」として君臨した布がありました。目に痛いほどの鮮やかな黄色や水色の発色、そして触れれば「バリバリ」「ゴワゴワ」と独特の音を立てるその幕体。
そう、ゴアテックス(およびその派生素材であるX-TREK)を使用したシングルウォールテントです。
ですが今、一つの時代が静かに、しかし確実に幕を下ろしました。
神話の崩壊 ~なぜ彼らは去るのか~
事の発端は2017年頃、山岳雑誌の片隅に掲載された小さな記事でした。「ゴアテックスのテントが消えるらしい」。その噂は、稜線を渡る風のように瞬く間に広がりました。
「なぜ最強の素材をやめる必要があるのか?」と疑問に思うのは当然です。理由は大きく分けて二つ。一つは法律、もう一つは環境です。
サーカステントの亡霊(CPAI-84)
当初、まことしやかに囁かれたのは北米における難燃性基準(CPAI-84)の問題でした。
これは元々、アメリカでパラフィン加工された巨大なサーカステントが大火災を起こした事故(1944年のハートフォード・サーカス火災など)を教訓に作られた基準と言われています。「テントは燃えにくくなければならない」というわけです。
しかし、ここで冷静に考えてみてください。
ファミリーキャンプならいざしらず、森林限界を超えた極地で、我々が使うのは大人一人がなんとか寝そべることができる極小のカプセルです。それを「サーカステントと同じ基準で燃えにくくしろ」というのは、「F1マシンに、ドリンクホルダーとETC車載器を義務付ける」と言うくらい野暮な話ではないでしょうか。
ゴアテックスの生地はこの基準をクリアするのが難しく(あるいはコストが合わず)、北米市場から締め出されてしまったのです。
永遠の化学物質(PFAS)
そして、とどめを刺したのが現代的な「倫理」の波です。
環境負荷物質、PFAS(有機フッ素化合物)の排除。
これです。かつて魔法の素材と謳われたePTFE(延伸ポリテトラフルオロエチレン)も、環境意識の高まりという名の「進歩」の前では、古い時代の遺物として退場を余儀なくされました。
PFASは別名「フォーエバー・ケミカル(永遠の化学物質)」とも呼ばれ、自然界でほとんど分解されません。フライパンの焦げ付き防止加工などにも使われてきましたが、ゴア社はこれらフッ素系素材からの脱却(ePEへの移行)を決定しました。
それは、あの頼もしくも無骨な「ゴワゴワ感」との、永遠の決別を意味していたのです。
「進歩とは、愛着のある不便さを、味気ない便利さに置き換えるプロセスのことである」
迷走する後継者たち ~ポリウレタンの憂鬱~
「王」不在の玉座を巡り、市場は一時混乱を極めました。
ICI石井スポーツの名作「G-LIGHT」や、アライテントの「Xライズ」、エスパースの「ソロ-X」。これらレジェンドたちの生産終了宣言は、まるで昭和の頑固親父が一斉に引退するかのような寂しさを我々に与えました。
では、我々は何に包まれて眠ればいいのでしょうか? 当時、ショップで店員さんを捕まえて「で、後継モデルはどうなるんですか?」と聞いても、彼らもまた困惑顔でした。 「うーん、アライテントさんがライズ1で使ってる『エスフレッチャー』あたりになるんですかねぇ……?」 そんな「立ち話レベルの憶測」がまことしやかに語られるほど、現場も混乱しており、先行きは不透明だったのです。
仮にそのエスフレッチャーだとしても、耐水圧こそあれど、透湿性という点ではかつての王には及びませんでした。
結露の「質」が違う
ここで、冬山における「結露」のメカニズムについて少し脱線しましょう。
ゴアテックステント(シングルウォール)を使っていると、朝起きた時、内壁が真っ白に凍りついていることがあります。 これを「結露してダメじゃないか」と嘆くのは、いささか『文明の毒』が抜けきっていない証拠です。エアコンの効いた寝室と同じ快適さを雪山に求めるのは、野暮というものでしょう。
なぜなら、かつてのゴアテックスにおいて、この結露は「絶望」ではなく「好機」だったからです。
朝一番、結露したテント内でガスストーブを「ゴォーッ!」と全開にします。 教科書通りにいえばガスの燃焼は水分を発生させますが、ゴアテックスにおいては急上昇した室温が「ターボチャージャー」の役割を果たします。 猛烈に高まった水蒸気圧が湿気を無理やり膜の外へ押し出し、結露は魔法のようにスーッと消えていく……。
一酸化炭素中毒と背中合わせの危険な荒療治ですが、あの「物理法則をねじ伏せてドライな空間を作る全能感」は、ゴアテックスだけの特権でした。
逆に、透湿性の低い素材で同じことをすれば、逃げ場のない水分が結露して降り注ぐ「水責めの刑」が待っています。この差こそが、我々がゴアテックスを信仰した理由なのです。
新世代の台頭 ~「通気」という新たな福音~
しかし、捨てる神あれば拾う神あり。混沌とした過渡期を経て、新たな勢力が台頭してきました。ここには日本の素材メーカーの意地が見え隠れします。
高通気エントラントの逆襲
プロモンテ(ダンロップ)が採用した「通気レベルの透湿性」を持つ素材に注目です。(2019年春販売開始)
「エントラント」と聞いて「ああ、昔のスキーウェアね」と思った方は、昭和生まれですね? 東レのエントラントはかつてゴアテックスのライバルでしたが、ゴム引きカッパのようなイメージを持つ人もいました。
しかし、最新のエントラントは違います。生地を通して「水の中に空気をボコボコ吹き出せる」ほどの通気性を手に入れて帰ってきたのです。アライテントもこれを「Eライズ」として採用しました。(2021年夏に数量限定で試験販売)
ヘリテイジの「掟破り」
ヘリテイジの「クロスオーバードーム」も進化しましたが、特筆すべきは「クエスト」というテントです。
なんと、ゴアテックスと同じePTFE素材である「eVent(イーベント)」を採用してしまったのです。
ゴアテックスが使えないなら、中身が同じ別のブランドを使えばいいじゃない。
という、マリー・アントワネットもびっくりの発想。
商標の壁を越え、実質的な「X-TREKの後継者」を自ら作り出した執念には脱帽するほかありません。(2023年7月登場)
モンベルのジェネリック戦略

モンベルの「ブリーズドライテック プラス」。名前こそ違いますが、中身はePTFE系統の素材だとされています。
いわば「ジェネリック・ゴアテックス」。
機能が同じならブランド名などどうでもいい、という実利主義者にはこれが正解かもしれません。さすが大阪の企業、合理的です。
名作テント「G-LIGHT」復刻!
【名作テント「G-LIGHT」復刻】
2018年に惜しまれつつも生産終了した、石井スポーツオリジナルブランド「PAINE」の名作「G-LIGHT」が数量限定で復刻致します。 現在予約受付中です。詳細はこちらhttps://t.co/3khZ06A9iF pic.twitter.com/1yQaabIF3S — 石井スポーツ(登山・アウトドア) (@ISGgreen) May 22, 2020
2020年7月、石井スポーツが「G-LIGHT」が数量限定で復刻しました。 本体生地にゴアテックスインフィニウムを採用し、防水透湿性とともに通気性を備え、結露を最小限に抑えるとされています。同ページには【スタッフによる使用レポート】が掲載されています。 石井スポーツ所属の天野和明さんはご自身のブログで歴代のゴアテックステントについて使用体験「 テントについて」を書かれています。
第4章:ゴアテックス自体の変質 ~ePTFEからePEへ~
そして物語は最終章へ向かいます。ゴアテックスというブランドそのものが、ePTFEからePE(延伸ポリエチレン)へと素材を転換し始めました。
新しい素材は、薄く、軽く、そして柔らかいそうです。
「ゴワゴワ」こそが強さだった?
かつてゴアテックスは、その硬い質感から「ゴワテックス」と揶揄されました。
しかし、冬山においてはその「ゴワゴワ」とした剛性が、強風下でのバタつきを抑え、テント全体の強度を補強していた側面があります。
新しいePE素材は非常にしなやかです。アークテリクスなどの最新ジャケットを触ってみてください。「えっ、こんなにペラペラで大丈夫?」と不安になるほど柔らかい。
おそらく遠くない未来、テントにもこのePE素材が採用される日が来るでしょう。
「なんだ、環境に優しくて軽くなるなら、いいことずくめじゃないか」
我々はそう嘯きながら、また新しいテントを買うためにクレジットカードを取り出すことになるはずです。
まとめ:不便というロマンへの鎮魂歌
かつて、テントの中でバリバリに凍ったインナーの霜をガスストーブで炙り、その水蒸気でまた新たな結露を作るという、マッチポンプのような夜を過ごしたあの日々。
重くて嵩張るけれど、「これさえあれば暴風雨でも死なない」という絶対的な安心感を与えてくれた、あの鮮やかな黄色の布。
ちなみに、なぜあのテントが黄色かったかご存知ですか?
もちろん雪山での視認性(遭難対策)もありますが、「悪天候で停滞していても、中にいると陽だまりにいるような暖かさを錯覚させるため」という心理的効果も狙っていたと言われています。
それらは市場から消え、より軽く、より環境に優しく、よりスマートなギアへと置き換わっていきます。それは喜ばしいことです。否定する理由などどこにもありません。
ただ、我々の記憶の底にある「あの匂い」と「あの手触り」だけは、最新のカタログスペックには記載されていないのです。
最後に、これからの山岳装備選びに迷う皆様に、この言葉を贈って筆を置きたいと思います。
「道具は進化するが、山と人間の弱さは変わらない。ゆえに、最新のギアを買う言い訳は常に存在する」








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