「鉄人」というのはその方を私が勝手にそう呼んでいるだけです。
七丈小屋のテント場で、甲斐駒ヶ岳の山頂で、ほぼ同じ場所と時間を共有しながら、なんとなく気になる方でした。私と同様に単独行で、痩せぎすの長身で、その眼差しの奥には何か深い想いを秘めているように思われました。
テントを撤収して、七丈小屋でペットボトルに水を補給して、さあこれから下り始めようとしたとき、鉄人氏が少し先を行かれました。私はコースタイムを記録するために、休憩地に到着したときや出発するときに写真を撮ります。その写真に鉄人氏が映りこんでいます。
険しい下りに入る前に、鉄人氏に追いつきました。鉄人氏は道をあけて、先に行くよう私に促しました。道を譲ってもらったものの、私もそれほど速く歩くわけではありません。第一には体力不足ですが、膝の調子があまりよろしくないのです。大きな段差の昇り降りには気を使います。登ってくる人達に道を譲って待機すると、鉄人氏が追いついてきます。
鉄人氏と初めて言葉を交わしたのは、五合目で休憩したときでした。
「最初は北沢峠から往復するつもりでしたが、帰りのバスの時刻に縛られるとマイペースで歩けません。それでこちらに来ました。小屋泊まりだと自分は咳が出て迷惑をかけるからテントを背負って登りました。昨日はきつかった。一歩ずつ足を出せばいつか必ず着くと信じて頑張りました。当初は日帰りしようかと思っていました」
「いやぁ、ここの日帰りはきついですよ」と私が返すと、
「馬場島から剣岳を日帰りしました」とのこと。
インターネットで情報収集し、惹かれたコースを登っているそうです。
「お住まいはどちらなんですか」と聞いてみました。
「キャンピングカーに寝泊まりしています。リタイヤして気ままに全国の山を登っています。駐車場にとめてあったでしょう」
そう言えば、売店の前にとまっていました。印象に残っています。
残雪の八甲田山で苦労したとか(八甲田山という響きがすでにやばい)、十勝岳で会った女性登山者の計画に便乗して、美瑛富士に足をのばしたら、アイゼンがなくて雪渓のトラバースで苦労したとか、なかなか破天荒に登山を楽しんでいらっしゃるようです。
「山登りは二年前に始めました」とおっしゃるので、その健脚ぶりから想像して、「何かトレイルランニングとかされていたんですか」と聞いてみました。
「いいえ。高所から落ちて、あちこち粉砕骨折して入院していました。ガン(悪性リンパ腫)を患い、闘病生活を送りました。その次は脳梗塞で倒れました。ガンのときは投薬や放射線治療を頑張りましたが、脳梗塞は頑張りようがありません。金勘定がうまくできなくなりました。それで自営業を続けるのを断念して、これからは気ままに過ごすことにしました。何をしようかと考えたとき、あぁこれだ、山登りがいい、と」
休憩を終えて、下山を再開しました。私は刀利天狗で早めの休憩をいれましたが、鉄人氏は「ぼくは下りは得意なんですよ」と、素通りしていきました。ほかに休憩していた二人組の方が去ると、樹林帯は静けさに包まれました。
近くで啄木鳥が木をうがつ音がします。動画に収めようとしたのですが、電池が残り少なく、すぐにシャットダウンしました。電池を交換しようとしたとき、啄木鳥らしい影がさっと樹影の向こうを飛翔して去りました。巣があるなら戻ってくるはずですが、ずっと待っているわけにはいきません。もしかすると、広い樹林帯のあちこちを飛び回って戻らないかもしれません。「鳥は自由でいいなぁ」と、ベタで感傷的な気持ちになりました。
八丁坂の途中で休憩中の鉄人氏を追い越しました。笹の平分岐で休憩していると、鉄人氏が追い付いてきました。少し立ち話をしたのち、あとは前後に並んで下り続けました。鉄人氏は八丁坂の途中から尾白渓谷まで歩き通しです。終盤、60メートルくらい先の登山道にいすわるクマ(実はサルだった)が立ち去るのを待つ一幕がありました。
「登山者が食べ物か何か落としたのかもしれませんね」
鉄人氏はクマと鉢合わせしたときのエピソードなど話してくれました。
尾白渓谷の駐車場に着くと、鉄人氏に誘われて、売店「おじろ」でうどんを食べました。鉄人氏は「ただいま」と、売店の女将さんに挨拶します。天候待ちで偵察にきたとき、キャンピングカーの客として、お馴染みになったようです。
「キャンピングカーがとまってるから、ああ来なさったんだな、と思ってましたよ」
鉄人氏はザルうどん、私は肉うどん。雑談するうちに、鉄人氏のケガや病歴に話が及ぶと、女将さんたちは目を丸くしていました。
「鉄人ですよ」と私は言いました。
女将さんは意気に感じたのか、うどん以外にもサイドメニューを出してくれました。うどんを食べ終わると、かりんとうの小皿やコーヒーが出てきました。
帰る間際、女将さんは鉄人氏に「おとうさん、また来なさいよ」と声をかけました。
小淵沢駅までキャンピングカーで送ってもらう道すがら、鉄人氏は西穂~奥穂の縦走路について私にたずねました。西穂に立って、この先はどうなのかなぁ、と眺めて帰ってきたそうです。私は「黒戸尾根をテントを担いで歩き通したんだから大丈夫ですよ。西穂山荘と穂高岳山荘に泊まれば荷が軽いですしね」と答えました。
好天を狙って計画を立て、すこしでも不安を感じたら頂上目前でも引き返すという鉄人氏なら、きっと登れます。私も近々、槍・穂高周辺を歩く計画があるので、またお会いできるかもしれません。
小淵沢駅の前で、固い握手をして、別れたのでありました。
コメント