
登山家は、本質的に「削ぎ落とす」ことに美学を感じる生き物です。しかし、どうしたことか。私たちの周囲には、最新素材のシェル、用途別のピッケル、そして「いつか読むはず」の山岳雑誌が、ゴアテックスの防水透湿層(メンブレン)よりも複雑に、あるいは未踏の岩壁のテラスに溜まった落石のように堆積していきます。
ミニマリストに憧れながら、ギアマニアとしての業を背負う。この矛盾に満ちた日々にどう平穏を見出すべきか。かつての「純化」された日々を振り返りつつ、現在の折り合いについて綴ってみたいと思います。
四畳半と裏山の往復、あるいは純化への道
私の原点は、四畳半の下宿と大学のキャンパスを往復する日々でした。四畳半は寝るためだけの場所。真の生活は、キャンパスの階段や、大学の裏山にありました。
当時は、今のように洗練されたトレーニング理論もありませんでしたが、その分、情熱だけは過剰積載でした。裏山で汗を流し、四畳半に戻って泥のように眠る。あの頃の私は、間違いなく人生で最も「純化」されたミニマリストでした。肉体こそが最大のギアであり、高価な道具などなくとも、心は常に未踏の尾根に飛んでいたのです。
今の私が自宅でHIIT(高強度インターバルトレーニング)に励み、タイマーの音に追われているとき、ふと裏山の冷たい空気と、若さゆえの無謀なエネルギーを思い出すことがあります。

聖域なき「一軍主義」の断行
ギアマニアがミニマリストを目指すとき、避けて通れないのが「一軍主義」という名の選別作業です。
結局のところ、私たちが山に連れて行くのは、信頼を勝ち得た一軍のギアだけ。二軍、三軍のギアは、押し入れの中で「いつか出番が来る」と、万年補欠の控え選手のような顔をしてこちらを見ています。しかし、その「いつか」は、待てど暮らせどやってきません。
私は、コレクションとして眺めるためだけのギアを「引退」させ、そのリソースを最高の一軍一点に集約させることにしました。例えば、三着の「まあまあなジャケット」を捨て、一着の「究極のハードシェル」を迎え入れる。これはミニマリズムというより、一種の「精鋭部隊」の編成です。一軍だけで固められた装備は、パッキングの迷いを消し、精神の軽量化をもたらしてくれます。

自炊という名の「情報の超軽量化」
もう一つの大きな壁が、山岳雑誌の山です。『山と渓谷』『PEAKS』『BE-PAL』……これらは知識の宝庫ですが、物理的にはただの重量物です。
そこで私は、スキャナという名の「現代の錬金術」を導入しました。長年の懸案だった伝説の誌面『岩と雪』のバックナンバーも、100号から最終号まで、その90%を自炊(電子化)しました。
何百冊という雑誌が、今では1枚の薄いタブレットの中に収まっています。本棚を圧迫していた「紙の山」が消え、居住空間に余白が生まれた光景は、まさに山頂で視界が開けた時のような爽快感です。もっとも、雑誌を処分して空いたスペースに、また新しいギアを置きたくなるという「マニアの禁断症状」との戦いは、今も続いていますが。

捨てられない「重石」の正体
それでも、どうしてもデータに置き換えられないものがあります。学生時代に感化された、新田次郎『孤高の人』のハードカバーです。
Kindle版も持っていますが、それはそれ。この物理的な一冊は、もはや本ではなく、私の登山愛好家としての「原点」が封印されたタイムカプセルなのです。経年変化した紙の重みを感じるとき、私は一瞬で、裏山で息を切らしていたあの頃の自分に戻ることができます。
効率と合理性を重んじるミニマリズムの基準からすれば、これは「不要な重複」でしょう。しかし、人生という長い登攀において、この一冊だけは、ザックの底に入れておくべき「お守り」のようなものなのです。

おわりに
山ではミニマリストとして軽やかに、街ではマニアとして深く。この二律背反を抱えたまま、私は今日もHIITのタイマーを回します。

かつての裏山にいた自分に、「今の装備は、少しは賢くなっただろう?」と語りかけながら。もちろん、返ってくるのは、激しい呼吸音と筋肉痛の予感だけなのですが。
「最高のミニマリズムとは、何もない部屋に住むことではなく、選び抜かれた一軍のギアに囲まれて眠ることである。」
「自炊(スキャン)に必要なのは、技術よりも、思い出を断裁する勇気と、少しの狂気である。」
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