利尻島へ海を渡ったヒグマを想う

2018年4月に利尻山に登りました。翌5月、ヒグマが海を泳いで利尻島に上陸したというニュースが流れました。

なんと最初に足跡が発見されたのは鬼脇。私が泊まった宿、と言うよりは、オタトマリ沼や白い恋人の丘から近い場所です。それだけに強い実感をもってニュースに接しました。

私が最初に抱いた感想は、
「アッパレな熊だな」
というものでした。

稚内から鴛泊までフェリーで1時間40分くらいかかります。そんな距離を泳ぎ切るなんて凄い体力です。もちろん、ヒグマが稚内の市街地をノシノシ横切って、港から出航したとは考えにくく、もっと南寄りの最短距離(約20km)の海岸から泳ぎだしたのではないかと想像します。

Googleストリートビューで見ると、本島側は海岸沿いを1本の舗装道(オロロンライン)が南北に走ってます。その周囲は見渡す限り草原です。

熊が走り回っていてもちっとも不思議ではない風景です。海の向こうの利尻島は思いのほか近くに見えます。視力がよくない熊には、ちょっと大きな湖の対岸くらいに見えたかもしれません。5月なら利尻山にはまだ残雪がところどころに白く輝いていたでしょう。たんに生物学的欲求(食糧や繁殖相手)を満たすなら、今踏みしめている本島側のほうがずっと豊かに思われます。にもかかわらず、海のかなたの白い峰を目指して泳ぎだすという行為にはロマンを感じずにはいられませんでした。

枠組みから脱出する物語

私は昔読んだ小説の妙に記憶に残る書き出しを思い出しました。主人公が住み慣れた世界の、数十年あるいは数百年に一度くらいしか、わざわざ人が行かない場所で、祖先が残した重大な手がかりを発見する=決められた枠組みから踏み出した者が人類を進歩させてきた……というメッセージです。全体がなんの話だったのか、さっぱり憶えていないのですが、作中で何度か繰り返されるそのメッセージだけが記憶に残っています。ロバート・A・ハインラインだったかな。Amazonの紹介ページであらすじを調べたのですが、該当する作品が見つかりません。しかしながら、私の言いたいことにむしろこっちのほうが近いという作品を見つけました。

「宇宙の孤児」

主人公が住んでいる世界は実は遠い昔に人類がはじめて送り出した恒星間宇宙船です。一世代では到底たどり着けないため、幾世代も世代交代しながら生活できる資源や設備をそなえています。やがて船内の秩序は崩壊し、知識や書物の多くが失われ、宇宙船の目的は忘れ去られます。言葉の意味は変質し、〈船〉とは彼らが住む全世界を意味し、〈旅に出る〉とは死の旅に出ることを意味するようになります。動くものとしての〈船〉や〈旅〉はある種宗教的な寓意でしかなくなります。宇宙船の真実(の一部)を知っているミュータント(放射線の影響らしい)と主人公の禅問答が面白い。

「〈船〉よりもずっと大きな場所を考えてみろ、ずっと大きな、その中に〈船〉がいるもの……その中で〈船〉が動いているもの……わかるか?」
「そんなこと、意味がありませんよ。〈船〉より大きなものなど、どこにもあるはずがありません。そういう場所は存在しないのです」
「聞くんだ! 〈船〉の外がわってこと、それはわかるか? あらゆる方向に、まっすぐ甲板を進んでいって突き抜けるんだ。そこの何もないところ。おれの言うことがわかるか?」
「だって、いちばん下の階には、それより下はありません。だから、そこが、いちばん下の階なんです」

生まれつき決められた枠組みの中で生きてきた人間の思考の限界をうまく描写した会話だと思います。

こうした箱庭的な設定を映画でも見つけることができます。

「トゥルーマン・ショー」

人間なら誰しも一度は考えたことがあるはずです。

「この世界は誰かが用意した舞台装置であり、自分は誰かが書いたシナリオのなかで生きているのではないか。自分は観察されているのではないか」

えっ、そんなこと考えたことがない? うーむ、それは幸福なことなのか、不幸なことなのか、何とも言い難いですね。もし考えたことがある人なら、より楽しめる映画だと思います。

「トゥルーマン・ショー」はジム・キャリーが主演したこともあり、明るい映画に仕上がっていますが、思い切りシリアスに振り切った映画もあります。

「ヴィレッジ」

どんでん返しの巨匠による作品。アーミッシュの生活様式に着想を得たようです。宇宙船のような奇想天外な設定ではなく、現実に存在しうる設定です。箱庭的なコミュニティのなかで、世代が進むうちに、迷信がはびこり、事件が起こる。主人公の女性が盲目であるため、よりいっそう外界とのつながりを遮断され、思考の枠組みが規定されます。観客がスクリーンに食い入るように感情移入したあと、明かされる真実とは……。

生まれつき思考の枠組みが規定されていると言えば、次の映画を外せないでしょう。

「マトリックス」

コンピュータが生体エネルギー(熱?)を動力源として利用するため無数のカプセルのなかで人間を培養するという、おそろしい未来世界が舞台となっています。人間は自分の意思で生きているつもりですが、実際にはコンピュータが脳に与える仮想現実のなかでうごめいているだけです。裏切者がコンピュータ側に寝返って、仮想現実のなかで地位を得て、豪奢な料理に舌鼓をうちながら、ふと「この肉も現実じゃないんだよな……」とつぶやく場面があります。現実でないとわかっていても、騙されてしまったほうが快適だという心理をよく描いています。

自分が生きているあいだには、コンピュータが意思を持つほど進歩することはない。こんなディストピアは絵空事だと思いがちですが、実は「マトリックス」は今まさに自分が住んでいる世界そのものです。市民は出生し、恋愛し、婚姻し、子孫を残す。製造し、消費し、旅をする。土地や株式を売買し、経済を回す。それら全てが現「マトリックス」の動力源である、と言ったら、シニカルすぎるでしょうか。

生まれつきの思考の枠組みを歴史的枠組みに置き換えた映画もあります。

「アポカリプト」

平和に森で暮らす部族。そこを突如として強大な武力集団が襲い、主人公たちはマヤの都に捕虜として拉致されます。主人公は残虐な生贄の儀式から運良く解放されたものの、人間狩りの対象としてジャングルに放たれ、逃げ惑います。敵を返り討ちにしながら、海岸まで逃げ延びたものの、疲労困憊し、追っ手においつかれてしまいます。ところが、追っ手が任務を放棄してしまうほどの衝撃的な光景がそこには広がっていました。マヤ文明自身がより大きな枠組みのなかの小さな枠組みでしかなかったのです。

インターネットから遮断されて

しらびそ小屋のテント場でインターネットから遮断されて、薄いシュラフに震えながら、くだんのヒグマのことを皮切りに、ふだん考えないようなことを考えていました。

自分のいる枠組みを見極めて、客観視し、意図的に脱出することは難しいですが、それを助ける方法のひとつが、登山をはじめとする非日常的な活動ではないかと思いました。

ヒグマの消息

北海道・利尻富士町のサイトで「利尻島内のヒグマ痕跡に関する最新情報」が公開されています。「7/12以降痕跡が見つかっておりません」とのこと。

いまでも利尻山のどこかで生きているのでしょうか。それとも再び海を渡って本島に戻ったのでしょうか。

「神々の山嶺」で主人公がエベレストの限界状況のなかで、ある登山家の亡骸と遭遇し、そのポケットに残っていたチョコレートのかけら(生前に主人公が渡した)のおかげで生還する場面があります。いつかまた利尻山を訪れたとき、そんなドラマチックな状況で白骨化したヒグマと出会う光景を夢想しています。

なんとこの記事を公開した翌日の10月30日付で、利尻のヒグマ「いない可能性100%に近い」という新聞記事が出ました。