
今でこそ高尾山あたりの低山でもトレッキングポールを使う登山者をたくさん見かけますが、二十世紀の頃は雪山でもあまり見かけないシロモノでした。
体力が満ち溢れていた頃には「手に持っているとはいえ荷物が増えるわけだから、身体全体としては負荷が増えるだけじゃないか」とバカにしていました。
しかし、本格的な登山から遠ざかり、すっかり足腰が弱体化した頃、ふと甲斐駒ヶ岳の黒戸尾根を登ってみたら、あまりにしんどかったので木の枝を2本拾って、トレッキングポールの代わりにしました。
登山歴ン十年?にして、ようやくトレッキングポール信仰に目覚めました。
トレッキングポール前史と進化論
今でこそ低山のハイキングコースでも猫も杓子も手にしているトレッキングポールですが、二十世紀の頃は山で見かけることもそう多くはありませんでした。
もとを辿れば、人は古くから木製の長杖(アルペンシュトック)やピッケルを突いて山に入っていました。やがて20世紀後半になると、登山者たちは冬のスキーストックを夏山や高所登山へと持ち込み始めます。
メスナーの発想と、世界初の伸縮ポール

このスキーストックの有用性を強く唱えたのが、1970年代の“超人”ラインホルト・メスナーでした。彼の賛同を得て、ドイツのLEKI(レキ)社が世界初となる長さ調節可能な伸縮式ポールを開発します。ここから現代のトレッキングポールの歴史が始まりました。
メスナーはトレッキングポールが引っ掛かったおかげでクレバスへの墜落を免れたとか、クレバスから脱出するのにトレッキングポールを利用したとか、いささか誇張された話が出回っています。
おそらく「チョモランマ単独行」に出てくるエピソードでしょう。
この本は前半の200ページ以上を延々とエベレストの歴史やチベットの風物についての叙述に費やしています。
山と渓谷誌で一部紹介されたときには、いきなりこのクレバスへの墜落場面から始まったので、強く印象に残っています。
クレバスに(約8メートル?)墜落してから脱出するまでスキーストック(トレッキングポール)は登場しません。脱出後、メスナーはまだクレバスの下側にいました。クレバスの向こう側の雪壁を登るためにスキーストックを利用しました。
二本のスキーストックとチタンでできたアイスピッケルが、ぼくの持っている唯一の補助手段である。(中略)亀裂の向こう側には切り立った雪壁がある。とっさに心を決めると、ぼくは体を前に倒し、二本のスキーストックをグリップのほうを前にして、リングのところまで雪に突きさした。頭上の壁に、二本のスキーストックが二つのしっかりした支点となった。これが人工的なグリップになるのだ。大きく股を開いて穴を飛び越え、山側にピッケルを使いながら二本のスキーストックをつかまなければならない。(p.286~287)
頂上までの辛い行程のところどころでスキーストックに言及します。
長さの調節可能な二本のスキーストックが、ここではほんとうに大きな助けになってくれる。自分の体重を両脚と両腕に分散することができる。(p.296)
テントの固定にも利用しました。
二本のスキーストックとアイスピッケル、そして持ってきた唯一のフェルスハーケンを使って、このビバークザック状のテントを固定する。(p.303)
頂上アタックではピッケルだけを携行。人類初のエベレスト単独無酸素登頂に成功したあと、下山するときにはまたスキーストックを活用しました。
ルックザック以外は、テントも寝袋も、一切合財置いてゆく。ただし、スキーストックだけは雪のなかから引っ張り出す。(p.349)
人類初のエベレスト単独無酸素登頂を成し遂げた男にとって、それは単なる「歩行補助の杖」ではなく、生きて帰るための「多目的ギア(武器)」でした。
TJAR 2016年大会の参加者全員が携行した

メスナーが示した「体力の温存」と「設営の支柱」という二つの役割は、現代の極限的な山岳レースにおいて一つの完成形を迎えます。日本アルプスを縦断し、日本海から太平洋まで距離416km、累積標高差2万7000mを駆け抜ける過酷なレース「トランスジャパンアルプスレース(TJAR)」です。
「山と渓谷 2017年2月号」のTJAR装備分析特集によると、2016年大会に出場した選りすぐりの選手29人全員が、トレッキングポール(ストック)をに携行していました。
わずか1gの軽量化に血道を上げる選手たちが、なぜ揃って「重り」になりかねないポールを持ったのか。
理由は明白でした。身体への負担を徹底的に軽減する歩行ギアとして不可欠だったことに加え、彼らが夜を明かすツェルトやストックシェルター(現在のトレイルシェルター)を設営するための「フレーム(支柱)」としてポールが組み込まれていたからです。実に29人中23人がストックシェルターを、6人がツェルトを選択していました。
ポールは単に歩くための道具ではなく、過酷な長旅を生き抜くための「軽量な家(シェルター)の一部」として機能していたのです。
厳冬期の洗礼と失敗の記録
赤岳山荘前のベンチでスクリューロックに悶絶した

無雪期からオールシーズンにかけて登山者の体を支えてくれるトレッキングポールですが、私がその「真の有用性」と同時に「道具としてのシビアな注意点」に直面したのは、冬の八ヶ岳でした。
私は二十年以上ぶりに雪山に復帰しました。復帰初戦では昔のようにピッケルだけ持っていきましたが、弱体化した足腰では雪に足をとられて体力を消耗しやすいと痛感しました。第2戦ではトレッキングポールを携行しました。目的地は八ヶ岳の赤岳鉱泉です。美濃戸口から美濃戸までのワンピッチは手に何も持ちませんでした。美濃戸からそろそろ雪が深くなってきます。いよいよトレッキングポールの出番です。
赤岳山荘前のベンチで組み立てようとしたところ、あれ? あれれ? スクリューロックが固くて解除できない。低温下で金属の膨張率が関係しているのでしょうか。おまけに手袋だと滑るので力が伝わらない。素手になりました。アルミがいくら冷たくても、強く握りしめなくてはなりません。そもそもどっちに回すんだっけ。緩めようとして、実際には固く締め付けているのではないか。コメカミに青筋を立てて悪戦苦闘。ようやく組み立て終わったころには手が冷え切って紫色になっていました。
無雪期の歩きやすい山道であれば気にも留めないような「固定方式のちょっとした違い」が、ひとたび条件が厳しくなると、命に関わるトラブルの引き金になり得ると、身をもって思い知らされた瞬間でした。
レバーロック式でもボヤいた、利尻山での記憶

「ならばレバーロック式なら万全か」といえば、人間の欲深さには切りがありません。
残雪の利尻山を登ったときのことです。長丁場の大部分をトレッキングポールを突いて行動したのですが、部分的な急傾斜ではピッケルに持ち替えました。その都度、トレッキングポールを縮めてザックのサイドポケットに刺して、サイドストラップで固定します。縮めるときは良いのですが、伸ばすときにひと手間かかります。
レバーロック自体はワンタッチで操作できるものの、シャフトの長さを調節するのが意外と面倒くさい。下段-中段、中段-上段の2箇所を合わせる必要があります。

なにも目盛りにぴったり合わせなくても、おおまかに持ちやすい長さにすれば良さそうなものですが、うっかり「STOP」マークを超えた位置で固定すると、継ぎ目が破断しやすくなりますから、そうもいきません。
「はるばる利尻山まで来て、なんで俺はこんなチマチマした作業に神経を使ってるんだ」
とボヤきました。これがスクリューロック式だとなおさら手間がかかります。
この問題の意外な解決法を、利尻山への最後の登りですれちがった方が示唆してくれました。その方はトレッキングポールを伸ばしたまま、ザックのサイドに固定していたのです。遠くから近づいてくるその両肩に巨大なアンテナのように突き出していました。避難小屋近くにスキーをデポされていたので、そもそも伸縮しないスキーストックだったのかもしれません。スキーヤーは長い板をザックにくくりつけて登高することがあるくらいですから、ストックを刺すくらい別段驚くことではありません。そうです。トレッキングポールは軽いし、風に煽られることもないので、ピッケルに持ち替えるたびにいちいち縮めなくても良いのです。
トレッキングポールの進化の歴史をたどる

まあ、そうは言っても、登山者が多い山でトレッキングポールを伸ばしたままザックのサイドに固定すると顰蹙を買うのは確実です。急斜面ですれちがう人に接触するかもしれませんし、木の枝やオーバーハングした岩に引っかかるかもしれません。
いちいち長さを調整しなくて済む、長さ固定のフォールディング式が欲しくなります。いや、やはり少しくらい長さを調整できたほうが良いかな、と思考を進めていくと、それはそのままトレッキングポールの進化の歴史をたどることになります。
結び:開眼〜「お守り」であり「武器」であるもの〜

私自身、低山のハイキングや整備された日帰りルートであれば、今でもポールを持たずにガシガシ歩くことがあります。「道や木道を傷つけないため」「自分の足腰を鍛えるため」という建て前もありますが、本音を言えば、両手が自由なほうが気楽だからです。
しかし、行程が長く人が少ない山域や、条件が厳しくなる季節においては、必ずポールをバックパックに挿していくようになりました。
山で単独行をしているとき、足首を捻挫したらどうなるか。ライターの村石太郎氏が金峰山で捻挫した際、普段なら30分で歩ける道を、ポールを杖代わりに使って2時間以上かけて這うように下山したと「PEAKS 2018年9月号」で書かれています。もしポールがなかったら、自力下山は不可能だったかもしれません。
私はさすがに高尾山には携行しないと思いますが、登山者が少なくて行程が長い山には積極的に携行しようと改心しました。
全国で熊被害が連日報じられる昨今、武器としてのトレッキングポールの役割にも期待したいところです。
トレッキングポールとは、歩行の負荷を分散し、シェルターを立ち上げ、時には野生動物への牽制や滑落防止の補助になる「お守り」であり「武器」である。
私はこうしてトレッキングポール信者になりました。



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