『ザイル』はもう死語? 登山用語がドイツ語から英語に変わった理由と、ピッケルを巡る迷走の歴史

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「ザイルを解く」という響きに、そこはかとない哀愁と、若かりし頃の自分を重ねる皆様。あるいは、ショップの店員さんに「目出し帽はどこですか?」と尋ね、「……ああ、バラクラバですね」と翻訳されて顔を赤らめた皆様。

日本の山を彩る言葉たちは時代とともに変わりました。かつては「ヒュッテ」で「シュラフ」にくるまるのが登山者の日常でしたが、今やショップの店頭には「ロッジ」や「スリーピングバッグ」の文字が、ごく自然に並ぶようになりました。

この言葉の変遷は、単なる言い換えではありません。そこには、日本の近代史や、登山という文化が歩んできた「修行からアクティビティへ」という劇的なドラマが隠されているのです。

1. はじめに:今、山のショップで起きている「呼び名」の異変

最近、登山用品店に足を運んで、戸惑いを感じたことはありませんか? 「ザックを探しているのですが」と店員さんに尋ねると、「バックパックですね、こちらです」と、さりげなく現代語に翻訳されて返ってくる。あるいは、冬山の準備として「目出し帽」を探しているのに、棚には「バラクラバ」としか書かれていない。

これらは単なる世代の差ではなく、日本独自の登山文化が「世界標準」へと合流しようとしている過渡期の象徴なのです。言葉の端々に宿る情熱と、少々の混乱を交えながら、その歴史を紐解いてみましょう。

昔ながらのツバ付きの目出し帽(バラクラバ)が登山用品店から消えた
雪山復帰の初戦。私は黒百合平から東天狗岳を目指して登りました。樹林帯から稜線にさしかかると、風雪が強まり、目に雪が飛び込みます。サングラスをかけよう。うわっ、一瞬で曇った。あれれっ、こんな感じだっけ? 仕方なくサングラスなしで過ごしました。...

2. 黎明期の「ドイツ語純血主義」

今では想像しにくいかもしれませんが、かつての日本の登山界において、公用語とも呼べる地位を築いていたのはドイツ語でした。ベテラン登山家たちの会話に耳を傾ければ、そこには必ずといっていいほど、重厚なドイツ語の響きが混じっていたものです。

当時、医学や法学、軍事の模範とされたドイツから、精神修養としての「アルピニズム」も同時に輸入されました。旧制高校のエリート学生(高専生)たちは、ドイツ語の哲学書を片手に山へ入り、山岳部を組織しました。彼らにとって、山をドイツ語で語ることは、最高峰の知識と技術を嗜む者の証、いわば「純血主義」的な誇りでもあったのです。

「山は哲学であり、修行の場である」。そんなストイックな価値観が、ドイツ語の重厚な響きと見事に合致していた時代でした。

3. 忍び寄る「英語実用主義」の足音

ところが、昭和後半から現代にかけて、登山が「一部のエリートの修行」から「国民的なレジャー」へと裾野を広げるにつれ、風向きが変わり始めます。

日常生活がアメリカナイズされる中で、ドイツ語のゴツゴツとした響きよりも、英語のスマートな響きの方が、現代の軽やかな山歩きにはしっくりくる……そんな「実用主義」的な空気感が生まれました。象徴的な変遷をいくつか見てみましょう。

  • ザック vs バックパック: ドイツ語の「Rucksack(ルックザック)」を日本流に短縮した「ザック」という愛称。1980年代以降、米国から「UL(ウルトラライト)」という自由で軽やかな文化が流入したことで、英語の「Backpack」が主流派の座を射止めました。
  • ザイル vs ロープ: かつては命を預け合う「運命共同体」の象徴だった「Seil」。現代では、より軽量で高性能な「Rope」という機能的な呼称が一般的です。
  • アイゼン vs クランポン: 「Steigeisen(シュタイクアイゼン)」を短縮した「アイゼン」という愛称。雪面を噛む鋭い爪も、ドイツ語の響きを離れ、国際的なガイド資格やSNSの影響により「Crampons」と呼ぶスタイルが浸透しています。
  • シュラフ vs スリーピングバッグ: 「Schlafsack(シュラフザック)」を短縮した「シュラフ」という愛称。「シュラフにくるまる」という情緒的な表現も、カタログスペックや合理性を重視する現代では、直球な英語の「Sleeping bag」として認識される場面が増えています。
  • コッフェル vs クッカー: 山屋が愛した「Kocher」は、本来ドイツ語でコンロを指す言葉でしたが、日本では鍋の呼称として定着。ちなみに超人ラインホルト・メスナーの著作では日本語訳は「コッハー」です。現在はキャンプブームの影響もあり、英語の「Cooker」が幅を利かせています。
  • シュリンゲ vs スリング: 岩場での必須装備も、ベテランが呼ぶ「Schlinge」という重厚な響きから、より軽やかな英語の「Sling」へと呼び名が移り変わっています。
  • ルンゼ vs ガリー: 岩壁を切り裂くような険しい溝。「Runse(ルンゼ)を詰める」というストイックな表現に代わり、世界基準の「Gully」という呼称が若い世代を中心に広がっています。

4.「ピッケル」の各部に残る、言語の混迷

さて、特別に掘り下げたいのが、登山の象徴「ピッケル」の呼称問題です。

大正から昭和初期にかけて、日本の登山家たちが手本にしたのはドイツやオーストリアの登山技術でした。当時、輸入された最新の道具は「Eispickel」でした。

  • Eis(アイス):
  • Pickel(ピッケル): つるはし、または(尖ったもので)突く道具

日本の登山者たちの間では親しみを込めて、あるいは呼びやすさを重視して、単に「ピッケル」と略されるようになりました。

この言葉自体はドイツ語ですが、その細かなパーツ名を見ていくと、英語とドイツ語、さらに日本語が入り混じったカオスな状況になっています。

  • ピック(Pick) = 英語: 氷雪に打ち込む鋭利な先端部分。語源は「つるはし(Pickaxe)」で、現在は英語の呼称が一般的です。
  • ブレイド(Blade) = 英語: ピックの反対側にある、氷を削ったりステップを切ったりするための平らな部分。ブレイドは本来は「刃」を意味します。日本では古くからこの呼び名が定着しており、ナイフのように雪を切り出すイメージが強い言葉です。「アッズ(Adze)」は「手斧(横斧)」を意味する大工道具の呼称です。海外メーカーのカタログや最新のアルパインクライミングの世界では、この「アッズ」という呼び名が標準となっています。
  • シャフト(Shaft) = 英語: 持ち手となる柄の部分。木製ピッケルの時代、登山家たちは愛着を込めてドイツ語で「シュティール(Stiel)」と呼んでいました。しかし、素材が金属やカーボンへ進化するにつれ、メカニカルな響きを持つ英語の「シャフト」へと呼び名が移り変わりました。
  • シュピッツェ(Spitze) = ドイツ語 / 石突き = 日本語: 杖として突く際、地面に接する最下部の尖ったパーツ。不思議なことに、ここだけは英語の「スパイク(Spike)」ではなく、ドイツ語の「シュピッツェ」という響きが今も現場の主流です。あるいはシンプルに「石突き」という日本語も併用されます。
なぜこうなったのか? 本来、ドイツ語で統一するなら「ハイン、ハウ、シュピッツェ」、英語なら「ピック、アッズ、スパイク」となるはずです。しかし日本では、それぞれのパーツで「最も通りが良い言葉」が生き残った結果、このような和・英・独のハイブリッド呼称が出来上がったのです。

「ピッケルのピック」という不思議なねじれ

ピッケルについては、さらに奥深い「言葉のねじれ」が存在します。

そもそも「ピッケル」はドイツ語の Pickel(つるはし) に由来します。本国ドイツでは道具全体を指す言葉ですが、日本では面白い現象が起きました。道具全体をドイツ語で「ピッケル」と呼びながら、その先端の尖ったパーツだけを英語の「ピック(Pick)」と呼ぶという、いわばハイブリッドな呼び方が定着したのです。

つまり私たちは長年、「ピッケル(独)の先端にあるピック(英)」という、鏡合わせのような不思議な二重奏を奏でてきたことになります。

近年では、海外ブランドの台頭により「アイスアックス(Ice axe)」という英語呼びも増えてはいますが、それでも日本の山では「ピッケル」という響きが今なお圧倒的な主流であり続けています。あの手にずしりと来る重みと、雪面を捉える信頼感には、やはり「ピッケル」という呼び名が最もふさわしい――そんな風に感じる登山者が多いのも、納得のいく話ではないでしょうか。

雪山登山、軽量ピッケルおすすめ、ペツルのグレイシャー
選定の条件は、長さ=65cm程度、重量=500g以下、ヘッド(ピックやブレード)が極端に華奢でない、です。最終的にペツルの「グレイシャー」に決定しました。『縦走主体であれば、歩行時に持て余さない程度に長いピッケルを購入する』ことをおすすめします。

5. 昭和の「定番」が消えていく? 装備の進化と呼び名の洗練

登山用語の変遷は、ドイツ語から英語への移行に留まりません。かつて日本語(あるいは和製英語)として定着していた名称が、より国際的に通用する名称へと上書きされている現象も起きています。

目出し帽 vs バラクラバ

かつて冬山の必需品といえば「目出し帽」でした。かつてその名で呼ばれていた時代、この装備には「厳しい冬山に挑む者の、少しばかり強面な覚悟」が漂っていました。

それが今や、クリミア戦争の地名に由来する「バラクラバ」という国際的な名称へ。もともとは「バラクラバの戦い」でイギリス軍が防寒のために使ったことに由来する名称です。機能性に優れたフリース素材やメリノウールの製品が普及するにつれ、このグローバルな呼び名が一般的になりました。

今では夏場の日焼け対策用も「バラクラバ」と呼ばれ、かつてのストイックなイメージは、より軽やかな「機能美」へと書き換えられています。

雪山登山、達人が選ぶバラクラバ(目出し帽)
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ロングスパッツ vs ゲイター

足元の泥除け・雪除けについても、大きな呼び名の変化が起きています。ベテラン登山者の多くが、膝下を覆うこの装備を「スパッツ(またはロングスパッツ)」と呼ぶ一方で、現在のカタログやSNSでは「ゲイター」という呼称が標準となりました。

なぜ「ゲイター」が主流になったのか? 日本では長い間、日常生活で使うタイツ状の「スパッツ」と区別するために、あえて「ロングスパッツ」という独特の呼び方をしてきました。しかし、世界標準では脚を保護する装具は「ゲイター(Gaiters)」。アウトドアブランドがグローバルな製品ライン展開を強め、海外の登山文化がダイレクトに流入する中で、日本独自の「スパッツ」という呼び名は急速に影を潜めていったのです。

「目出し帽」が放っていたあの凄みのある響きも、「ロングスパッツ」というどこかレトロな安心感も、洗練された「バラクラバ」や「ゲイター」という響きに飲み込まれ、日本の山岳文化は一歩ずつ、グローバルなスタンダードへと合流しています。

6. おわりに:古き良き言葉も、新しい言葉も「山の宝物」

「ザック」を「バックパック」と呼び変えることに、一抹の寂しさを感じる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、言葉は時代と共に姿を変えながら、文化を次世代へと繋いでいく器でもあります。

ドイツ語の「純血主義」が守ってきた伝統の重みと、英語の「実用主義」がもたらした合理的な使い勝手。言葉の変遷を知ることは、日本人がどのように山と向き合ってきたかを知ることに他なりません。

特定のシチュエーションや情緒的な風景を語る際には、今もなおドイツ語がその独特の輝きを放っています。

  • ツェルト(Zelt) 本来は「テント」を指すドイツ語ですが、日本では軽量な「簡易テント・非常用シェルター」を指す言葉として完全に定着しています。英語の「シェルター」よりも、どこか緊急時の緊張感と信頼感を抱かせる響きです。
  • アーベントロート(Abendrot) 夕日に染まる山肌を指す「夕焼け」のこと。英語の「サンセット」では表現しきれない、登山者が一日の終わりに静かに山を仰ぎ見るような、荘厳なニュアンスが含まれています。
  • モルゲンロート(Morgenrot) 朝日に輝く山肌、いわゆる「朝焼け」です。早朝の冷たい空気の中で、山頂がピンク色に染まり始める瞬間の高揚感は、やはりこのドイツ語の響きが最もよく似合います。
  • ビバーク(Biwak) 予定外の野宿を指す言葉。英語の「フォースト・ビバーク(Forced bivouac)」などとも言いますが、日本語の登山文脈では、この短く鋭い「ビバーク」という響きが、夜の山で耐え忍ぶ過酷さと覚悟を象徴しています。

山頂で交わされる言葉が何語であれ、そこで仰ぎ見る「アーベントロート(夕焼け)」の美しさに変わりはありません。

皆様も次の山行では、ご自身の装備を眺めながら、日本の登山が歩んできた豊かな歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

四方山話
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