「イーロン・マスクのAI未来予測」と「登山やクライミングの意義」

記事内に広告が含まれています。

最近、少しぞっとするような、それでいてどこか滑稽な未来の話を耳にしました。あのイーロン・マスク氏が予測する、AIとロボットがもたらす「アバンダンス(富の潤沢化)」の世界についてです。

氏の予測を知らない方のために少しだけ説明しますと、これから数年〜10年の間に、自ら考える「汎用人工知能(AGI)」や優秀な人型ロボットが爆発的に普及し、世の中のあらゆる労働や生産を代替するようになるそうです。

その結果、生産コストは限りなくゼロに近づき、人は働かずとも欲しいものが何でも手に入るようになります。さらには、需要に対して供給が上回りすぎるため、物の価値がなくなり、我々がせっせと貯めている「通貨の価値」すら消滅するかもしれない、というのです。

一見すると、労働から解放されたユートピアの到来です。しかし、マスク氏はかつて行われた「ユニバース25」という有名な実験を引き合いに出し、警鐘も鳴らしています。天敵もおらず、食料も無限に与えられた「完璧な楽園」に置かれたネズミたちは、やがて生存競争という役割を失い、社会秩序を崩壊させて全滅してしまったのです。

では、この労働と苦労から完全に解放された「ネズミの楽園」が現実のものとなったとき、私たちのような物好きな人間が、わざわざ重い荷物を背負って山へ向かうことには、一体どんな意味が残るのでしょうか。私なりに考えてみたところ、そこには大きく3つの意義があるように思えます。

「意図的な不自由」による生存実感の回復

空調が完璧に管理され、AIが最適な食事を提供してくれる無菌室のような世界では、人間は「不足」や「困難」を経験する機会を完全に奪われます。だからこそ、私たちはあえて身を切るような冬の稜線へと向かい、吹きさらしの雪原でテントを張るのでしょう。

底冷えの寒さを知らぬ者に、シュラフに潜り込んだ時のあの至福の温もりは理解できません。圧倒的な不自由と過酷さに身を投じることこそが、己がまだ生きているという強烈な実感を与えてくれる、一種の解毒剤となるのです。

「本物の手触り」と身体性の証明

マスク氏は現在、人間の脳にチップを埋め込んでAIと融合させる計画も進めています。やがては「山頂からの絶景」や「難ルート完登の達成感」すら、脳に直接ダウンロードできる時代が来るのかもしれません。

しかし、それは所詮、賢い電気信号が見せる幻に過ぎません。凍てつく岩肌の匂い、カチャカチャと鳴るアナログな登攀ギアの冷たくて重い手触り。あるいは、岩壁に張り付くときの前腕の焼け付くような疲労感。デジタルとは対極にある、こうした泥臭く物理的な「本物の手触り」だけが、自分が単なるデータの集合体ではなく、血の通った動物であることを証明してくれるのです。

「究極の非効率」という至高の贅沢

AIやロボットの存在意義は、いかに早く、安全に、無駄なく目的を達成するかという絶対的な「合理性」にあります。それに対して、危険を冒して高いところへ登り、また自らの足で下りてくるだけの登山は、AIのアルゴリズムから見ればただの「エラー」であり、非効率の極みです。しかし、あらゆる結果が瞬時に手に入る社会においては、この「泥臭く無駄なプロセスそのものを引き受けること」こそが、最も知的な反逆であり、最高級の贅沢となるのではないでしょうか。

いつか、完璧な機能を持つ人型ロボットが「私が5分であなたを山頂まで安全にお運びしますが、なぜわざわざご自身の足で登るのですか?」と、心底不思議そうに尋ねてくる日が来るかもしれません。

その時、私は気の利いた反論の一つも思い浮かばず、ただ苦笑いをして、くたびれたバックパックを背負い直すことでしょう。世の中が便利になればなるほど、自らを痛めつける山ヤの奇行は、より一層深く、静かに光り輝くはずです。

四方山話
スポンサーリンク

コメント