
導入: 仰向けで眠れるのは、夏の低山だけだ
テントの中で手足を大の字に広げ、開放感に浸りながら眠る。それは、夏の低山だけに許された特権です。
ひとたび気温がマイナス10度を下回れば、そのような無防備な姿勢は、貴重な体温をみすみす捨てる行為に他なりません。寒さが厳しくなるにつれ、私たちは誰に教わるでもなく、本能的に膝を抱え、背中を丸めるようになります。
いわゆる「胎児姿勢(Fetal Position)」です。

母の腹の中にいた頃の記憶を呼び覚ますかのようなこの姿勢は、生物としての根源的な防御態勢です。物理的に体表面積を最小化し、外気への放熱を防ぐだけではありません。同時に、冷たい地面(たとえ高性能なマット越しであっても)に接する体の面積を減らし、下から奪われる「伝導熱」を最小限に抑える、極めて合理的な熱力学的選択なのです。
シュラフの中で丸まっているとき、人は無意識に「右」か「左」のどちらかを下にして横たわっています。
多くの登山者は、その向きを「なんとなく」決めているかもしれません。あるいは、地面の僅かな傾斜に委ねていることでしょう。
しかし、ここに私のいささか病的とも言えるこだわりが存在します。
テントに入った瞬間、私がまず確認するのは、風向きでもなければ、出入り口の方角でもありません。「私の幽門(胃の出口)」がどちらを向くかだ、と言ったら、あなたは笑うでしょうか。
第1章: 解剖学が教える「内臓のための指定席」
重力に喧嘩を売らない「寝相」の鉄則
結論から申し上げましょう。雪山の夜、あなたがドカ食いした夕食を抱えて眠るなら、「右側臥位(うそくがい)」、すなわち体の右側を下にして眠るのが正解です。
理由は極めて単純で、かつ医学的です。私たちの胃袋の形状にあります。
胃袋の形を知れば、重力が味方になる

人間の胃は、食道からつながる入り口(噴門)から、出口(幽門)を経て十二指腸へと至る過程で、アルファベットの「J」のような形を描きながら、右側へと湾曲しています。
想像してみてください。もしあなたが「左側」を下にして寝たとしましょう。
胃の中にある消化物は、重力に逆らって出口(右側にある幽門)へ登らなければなりません。これは消化の流れを滞らせ、最悪の場合、胃酸が食道へ逆流するリスクを高めます。雪山での高カロリーで脂っこい食事の後では、胸焼けの原因ともなり得ます。
逆に、「右側」を下にして寝ればどうなるか。
重力は消化の強力な助っ人となります。内容物は自然と胃の出口である幽門へと流れ落ち、スムーズに十二指腸へと送り出されていきます。
雪山のドカ食いと「消化のエネルギー」
「ただ消化が良くなるだけではないか」と侮ってはいけません。
厳冬期の登山において、私たちは暖房のないテントで一夜を過ごすために、平地では考えられないほどのカロリーを摂取します。消化というプロセスは、内臓にとって重労働であり、大量の血液とエネルギーを必要とします。
消化不良は睡眠の質を下げ、深部体温の維持を阻害します。速やかに胃を空にし、内臓を休ませることは、すなわち全身を休息させ、翌日の発熱効率を高めることに直結します。
重力に逆らわず、胃の形に従うこと。
それが、氷点下の夜における最も省エネな「内臓の配置」なのです。
ただ一つ確実なのは、平地では仰向けで寝ている人であっても、氷点下の雪山という極限環境においては、寒さへの恐怖と生存本能から、誰もが「サイドスリーパー」へと変貌しがちだという事実です。
第2章: 「クロス・ボディ・リーチ」の呪縛と、背中へ逃げるジッパー
欧米の「左ジッパー」信仰を疑え
さて、我々が雪山では不可避的にサイドスリーパーになると仮定したとき、一つの問題が生じます。シュラフのジッパー位置です。
Western MountaineeringやValandréといった欧米の最高峰ブランドは、右利き用モデルに対して頑なに「左ジッパー(Left Zip)」を採用しています。
彼らの理屈はこうです。「右利きの人間が仰向けに寝てジッパーを操作する場合、右手を胸の前で交差させ(クロス・ボディ・リーチ)、反対側のスライダーを引くのが最も力が入る」と。
確かに、暖かい部屋で仰向けで寝るならその通りでしょう。しかし、前述した通り、ここはマイナス20度の雪山です。私たちは今、寒さに震えて「丸まって」います。しかも、消化を助けるために「右を下にして」います。
背中側にジッパーがあってどうする?
右を下にして丸まったとき、あなたの顔と右手はどちらを向いているでしょうか? 当然、「右側」です。
この状態で、欧米式の「左ジッパー」を使うとどうなるか。
ジッパーは背中側、あるいは頭上の天井側という、体から最も遠い位置に行ってしまいます。夜中に暑くて少し開けたいとき、あるいはトイレに行きたいとき、あなたはわざわざ体を捻り、窮屈なシュラフの中でアクロバティックな動きを強いられます。
その無駄な動き一つ一つが、シュラフ内の温かい空気をポンプのように外へ排出してしまうのです。
「右向きで寝る」という生理学的正解を選んだ瞬間、欧米由来の「左ジッパー」は、その合理的根拠を失うと言わざるを得ません。
第3章: -20℃の繭 —— 「動かない」という究極の保温

「右ジッパー」が作る、絶対防御の生活動線
私が、モンベルやイスカ、ナンガといった日本メーカーの「右ジッパー」を愛してやまない理由は、単なる操作性の好みではありません。それが「雪山生活の動線」と完璧にリンクするからです。
想像してください。外は猛吹雪。テント内も氷点下です。
あなたは右側を下にして、温まったシュラフの中で丸まっています。
顔のすぐ目の前には、スライダー(引き手)があります。
ファスナーを20cmほど下ろすだけで、そこはもうキッチンです。
寝袋から半身も出さずに水を作る
翌朝、雪を溶かして水を作るという、雪山で最も億劫な作業が待っています。
もしジッパーが逆なら、一度半身を起こし、冷たい空気に背中を晒さなければなりません。
しかし、右側臥位かつ右ジッパーならどうでしょう。
シュラフから出る必要はありません。顔と手首だけを出し、目の前に置いたバーナーに着火する。お湯が沸くまでの間、再びジッパーを閉めて微睡むことも可能です。
この「布団の中から出たくない症候群」を極限まで突き詰めたスタイルこそが、熱を逃さない究極の保温術です。自分の体温で温めたデッドエアを一切逃がさず、最小限のカロリー消費で朝の支度を整える。
それはまさに、外界の凍てつく空気を完全に遮断し、自らの体温だけで一つの世界を完結させる、絶対防御の「繭」なのです。
結論: すべては「右側臥位」から逆算される
右を制する者は、夜を制す
右を下にして眠ることで、胃の負担を減らし、安眠を得る。 そして、その姿勢のまま、最小限の動作で炊事や身支度を完結させる。
これが、私がたどり着いた雪山テント泊の「右側臥位システム」です。
今日からできる「配置」のハック
もしあなたが次に雪山へ行くなら、テントを設営する際、少しだけ想像力を働かせてみてください。
「枕をどちらにするか」を決める基準は、入り口の位置だけではありません。 自分が右を向いて寝たとき、その視線の先に何が来るか。バーナーやコッヘルを置く前室のスペースは、自分の胃袋の出口側に確保されているか。
わずかなカロリーさえも効率的に熱に変え、朝まで体力を温存すること。 それはもはや趣味の領域を超えた、一つの立派な「生存戦略」と言えるのではないでしょうか。
翌朝、震える指先でマッチを擦る隣人を横目に、シュラフという名の繭の中から優雅にコーヒーを淹れるために。
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