
インクは十分に残っているはずなのに、いざという時に文字が書けない。日常でも経験するあの苛立ちは、雪山という過酷な環境において、いっそう深刻化します。
一般的な油性インクは、寒さに晒されると冷蔵庫に入れたバターのように硬化し、流動性を失います。固まったインクはペン先へ降りてこず、さらには舞い散る雪や手袋の雪解け水で紙面がわずかに濡れるだけで、ペン先の極小ボールはむなしく空回り(スリップ)します。
そこで、極低温や水濡れという物理的な弱点を克服できる商品、さらには「ウルトラライト(UL)な雪山用ボールペン」としてカスタマイズする方法を紹介します。
登山用筆記用具の定番モデル比較
宇宙のロマンと永遠を宿す「フィッシャー スペースペン」
「無重力でも、水中でも、極度の寒暖差でも書ける」という、宇宙飛行士の過酷な任務を支える名作です。「ドライアップ(乾燥)がなく100年以上の保管も可能」という途方もないスペックには、一つの道具として完成された美しさと、揺るぎない高級感があります。
かつて私も愛用していました。ただ、グラム単位で重量を削る装備計画の中においては、その堅牢な金属ボディがもたらす重厚感が、時にほんの少しだけ悩ましく感じられるのも事実です。
原点にして頂点。水に強く氷点下でも書ける「鉛筆」と「シャープペンシル」
凍結するインクを持たない鉛筆やシャープペンシルは、ある意味で自然環境における究極の解答の一つです。野口悠紀雄氏の名著『「超」整理法』において、入浴中にひらめいたアイデアをメモするため、氏が様々な防水筆記具を試行錯誤した末に「紙と鉛筆」という最も素朴な組み合わせに落ち着いたというエピソードは、物事の本質を突いています。
湯気と水滴に打ち勝つ鉛筆やシャープペンシルは、雪山でも当然ながら心強い味方です。ただ、かじかんだ指先で極小の替芯を補充する作業の難しさや、濡れて脆くなった紙面を鋭利な芯先でうっかり破いてしまうリスクとは、上手にお付き合いしていく必要があります。
安価で実用性抜群な三菱鉛筆「パワータンク」
低温下での筆記具を探求してたどり着く最適解のひとつが、三菱鉛筆の油性ボールペン「パワータンク」です。2001年の発売以来、過酷な現場での確実な筆記を支え続けている名品と言えます。
- 氷点下での筆記: マイナス20℃の厳しい冷え込みでもインクが固まらずかすれません。
- 濡れた紙への筆記: 雪や雨で濡れた耐水ノートにもしっかりとインクが乗ります。
- 上向きでの筆記: テント内で寝転がりながらメモをとっても、空気を巻き込んで書けなくなる心配がありません。
本家スペースペンに迫るスペックを持ちながら、数百円という安価でどこでも入手可能です。
結論!雪山の筆記用具には「パワータンク」が最適解
実用性というものは、往々にして日常的な佇まいのなかに潜んでいるものです。
マイナス環境でもかすれない「加圧式ボールペン」の威力
パワータンクの核心は、約3000hPaの圧縮空気でインクを裏から押し出す機構にあります。上向きでも書け、濡れた紙面にもインクをしっかりと押し付けます。公式のプレスリリースを掘り起こせば「マイナス20℃でも書ける」という頼もしい記述も確認でき、雪山に連れ出すには十分な素質を持っています。
相性抜群!耐水紙ノートとの組み合わせ

もちろん、水に強いペンを手に入れても、紙が溶けてしまっては元も子もありません。ここは素直にライフの「アウトドアノート B6」のような耐水紙を組み合わせるのが理にかなっています。これで、水に対する憂いはほぼ解消されます。

【UL化DIY】パワータンクの「替芯(リフィル)」で最軽量ボールペンを作る
ここからがささやかな工夫の見せ所です。パワータンクの機能は素晴らしいものの、一般的なボールペンの外殻は、少しばかり嵩張ります。ならば、思い切って外殻はお留守番にして、中身だけを連れ出してみましょう。
実測重量わずか約4g。単体筆記に十分な太さ

パワータンクのリフィル(替芯)は、内部に圧縮空気を仕込んでいる都合上、直径7.5mmというしっかりとした太さを持っています。手に取ってみると分かりますが、これ単体で十分に筆記が可能です。

実測重量は約4g。スペースペンの重厚感を手放したことにも納得がいく、究極のウルトラライトギアの誕生です。

雪山での紛失を防止する「ゴム紐リーシュ」の作り方
しかし、4gのつるりとした棒切れは、雪の上に落とせば最後、静かに雪と同化してしまいます。そこで簡単な加工を施します。

リフィルの尻に数センチのゴム紐をU字型に当て、ビニールテープで巻きつけます。

すっぽ抜け防止のため、ゴム紐の端を折り返してさらに巻くのがコツです。

末端はもやい結び(ブーリン・ノット)でループを作っておきましょう。
ノートのリングに収納して携帯性をさらに高める

このゴム紐リーシュをノートのダブルリングに通せば、山に置き忘れるリスクはぐっと減ります。

リーシュを縦に巻き付けてしおり代わりにしても良いですし、ノートのリング径が大きければ、リフィル本体をリングの空洞にすっぽりと収納してしまうことも可能です。

リフィル単体を購入することが可能です。
国産メーカー各社から登場した「加圧式」の選択肢
他メーカーからも過酷なアウトドア環境に耐えうる「加圧式ボールペン」が続々と登場しています。
三菱鉛筆のパワータンクが「リフィル自体にガスを封入」しているのに対し、他社の多くはノックする力でペンの内部の空気を圧縮する「ノック加圧式」を採用しています。
DIYの手間なく、買ってきた状態のまますぐに日本の雪山やバックパッキングで実戦投入できる、頼もしい3本をご紹介します。
トンボ鉛筆「エアプレス」(2008年登場)
ノック加圧式アウトドアペンの先駆け的存在です。
全長122mmという取り回しの良いショートボディが特徴で、表面全体がエラストマー(ラバー)で覆われています。これにより、冬山の厚手の手袋をしたままでも滑らずにしっかり握れるのが最大のメリットです。強力なワイヤークリップも備わっており、ウェアのポケットやザックのウェビングにガッチリと固定できます。
パイロット「ダウンフォース」(2011年登場)
日常使いとの兼用を考えるなら、ダウンフォースが優秀です。
最大の強みは、専用の替芯ではなく、安価な通常リフィルをそのまま使える点にあります。ランニングコストに優れており、気兼ねなくガシガシ書き込めます。バインダークリップを搭載しているため、厚手のアウトドアノートなどにも挟みやすく、書き出しのかすれもないため現場でのストレスがありません。
ゼブラ「ウェットニー」(2020年登場)
近年登場した、よりハードユース向けの一本です。
米国軍事規格(ミルスペック)に準拠したステンレス製のメタルボディを採用しており、岩場などに落としても割れないタフさを誇ります。さらに嬉しいのが、上部に紐を通せる大きな穴(ストラップホール)が標準装備されている点です。自分でテープを巻いてループを作る加工をしなくても、そのまま細引きやカラビナを通すことができます。
ウルトラライトをとるか、堅牢性をとるか
徹底的な軽量化(ウルトラライト)を求めるなら、やはり「パワータンクのリフィル単体運用」が最強です。
まとめ:究極のUL筆記用具で、山という空白に記憶を刻む

外殻を捨て去り、中身だけを雪山へ連れ出すといういささか風変わりな手段ではありますが、これ以上に身軽で、そして環境の暴力に屈しない筆記のシステムを私は他に知りません。
電源もいらず、ただ物理法則に従って黙々とインクを吐き出すこの小さな4gの棒切れは、極寒の稜線において、確かな記録とほんの少しの安心感をもたらしてくれます。









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