
山に入れば、まずは挨拶が基本です。しかし、すれ違いざまに馬鹿正直に「こんにちは!」とハキハキ発声していては、善良なハイカーではあっても「玄人」には見えません。
場数を踏んだ山屋は、短く「ちわっす」「…ちわ」と発音します。これだけで、何百回もすれ違いを経験してきた風格が漂います。
挨拶をマスターしたら、次は会話の中身です。仲間との会話に少しの「山言葉(ジャーゴン)」を混ぜるだけで、あなたの佇まいは一気に「ただの観光客」から「事情を知る山屋」へと昇華します。
今回は、一般用語をいかに山用語へ変換し、いかにして「通」の空気を醸し出すか。そのための具体的なハック術を伝授いたします。
1. 地形は「英語とフランス語」で上書きする
街で使う「峠」や「頂上」という言葉をそのまま使うのは、初心者であることを露呈するようなものです。
- コル(鞍部): 「峠」は禁句です。元はフランス語の「首(Col)」ですが、もはや誰も「なぜ山に首が?」などと疑問を挟みません。ただ短く「コル」と言い放つ。それだけで、事情通の顔ができます。
- ピーク: 「頂上」ではなく「ピーク」です。「今日踏むべきピークはあと三つ」と呟けば、単なる景色見物ではなく、等高線と戦う者の顔つきになれます。
- ゴーロ、ガレ、そしてザレ: 岩のサイズで呼び方を変える細かさこそが玄人です。巨岩なら「ゴーロ」、中くらいの浮石なら「ガレ」、さらに細かい砂礫なら「ザレ」。なんとなくドイツ語っぽい響きですが、日本独自の「オノマトペ」が語源です。「ここはザレてて滑るな」とボヤくことで、単に足場が悪いと嘆くのではなく、地質レベルで路面状況を解析している雰囲気を醸し出せます。
2. 生理現象と停滞を「ユーモア」で包む

山での不便さを愚痴るのではなく、隠語に変えて楽しむのが山屋の粋というものです。
- キジを撃つ / お花を摘む: 草むらへ消える際、無言で行くのは野暮です。男性なら猟師に、女性なら乙女になりきり、この隠語を使いましょう。
- 沈殿(ちんでん): 悪天候で動けない。それを「停滞」と呼ぶのは普通すぎます。物理現象として「沈殿」と呼び、テントの底に溜まって動きようがない自分を自虐的に笑い飛ばしましょう。
- 晴れ沈(はれちん): さらに上級のハックです。外が快晴なのに「いや、今日は居心地がいいから」とテントに居座る。この「晴れ沈」をあえて選択する余裕を見せれば、ピークハントに血眼になる層を一歩リードできます。
3. 天気は「情緒」ではなく「実況」する

「霧が出て幻想的ですね」などと感想を漏らすのは、ホテルのテラスにいる観光客だけです。山屋にとって天候は、生存を左右するパラメーターに過ぎません。
- ガス: 霧のことです。「ガスる」「ガスが湧く」「ガスが巻く」と活用します。視界を遮る白い闇を「ガス」と呼ぶことで、まるで有毒な化学物質に包囲されているかのような、しかるべき緊張感を演出できます。「ガスが濃くなってきたな……」と呟けば、ドラマのワンシーンの完成です。
- ピーカン: 雲ひとつない快晴のこと。「快晴」と言うよりも、突き抜けるような青空の強度が伝わります。語源はタバコの「ピース」の缶の色とも言われますが、この昭和の業界用語のような響きをあえて令和に使うことで、年季の入った山屋の余裕を醸し出せます。
- てんくら: 天気を予測することではなく、「てんきとくらす」という予報サイトの登山指数(A・B・C)を指す俗称です。「明日のてんくら、Aじゃん」と軽く言うことで、観天望気(雲を見て天気を知る古典的技術)を放棄し、文明の利器を使いこなす現代的でドライな登山者であることをアピールできます。
4. 食事は「戦い」であり、道具は「武器」である

ここが最も重要なハックです。山での食事を単なる栄養補給と考えてはいけません。
- 武器(ぶき): スプーンや箸を「武器」と呼びましょう。過酷なテント泊縦走において、大鍋で作られたカレーとご飯は、争奪戦の標的です。猫舌のメンバーは、熱々のルーに冷水をぶっかけてでもかき込み、他人の二杯目に間に合わせようとします。その手にあるのはスプーンではなく、まさに生きるための「武器」なのです。
- シャリバテ: 「お腹が空いて動けない」ではなく「シャリバテ」です。米(シャリ)が切れたことで動力が失われたことを、いかにも職人風に告げましょう。
5. 戦略としての「ピストン」

直進するだけが登山ではありません。
- ピストン: メインルートから盲腸のように脇道に逸れたピーク、例えば南アルプス全山縦走中の「農鳥岳(地味な名前だけど三千メートル峰!)」や、涸沢にベースキャンプを張ってからの「奥穂高岳」など、往復して戻る行程を「ピストン」と呼びます。「今回は涸沢ベースで奥穂をピストンしてくるよ」とサラリと言えば、あなたの計画性がひときわ輝きます。
- 一本立てる: かつての歩荷たちが杖(一本の棒)を支えに重荷を浮かせて休んだ、その仕草の残像です。私たちは軽量なポールを使いながらも、この言葉を口にすることで、かつての重圧と呼吸を共有しています。
最後に
こうした言葉を使いこなすのは、決して他人を煙に巻くためではありません。
「ガスが出てきた。次のコルで一本立てよう」
そう口にすることで、日常の緩んだ空気を引き締め、自分自身を「山の密度」へと適応させるための儀式なのです。
たとえ猫舌でカレーに水をかけていたとしても、言葉さえ正しく配していれば、あなたは立派な「山屋」として、周囲から一目置かれることになるでしょう。
さあ、まずは短く「ちわ」と呟くところから始めてみませんか。
コメント