
リト・テハダ=フローレス(Lito Tejada-Flores)が1967年に発表したエッセイ『クライマーが演じるゲーム(Games Climbers Play)』は、登山という行為を「スポーツ」や「冒険」といった曖昧な言葉で片付けるのではなく、「ルールに基づいたゲーム」として再定義した画期的な論考です。
- Games Climbers Play(リンク切れ)
- Games Climbers Play
- 「岩と雪」№93
その鋭い洞察を引用しつつ、その本質について論評します。
温故知新「クライマーが演じるゲーム」
登山の本質は「困難さの維持」にある
テハダ=フローレスは、登山のスタイルを「ボルダリング」から「エベレスト遠征」まで7つのカテゴリーに分類しました。
| ゲーム名 | 主なフィールド | ゲームのルール(制約と特徴) |
| 1. ボルダリング | 小さな岩、ジム | 最も厳格。道具による補助を一切排除し、純粋に身体能力のみを試す。 |
| 2. クラッグ | 数十メートルの岩壁 | 1ピッチの登攀。確保技術は使うが、あくまで「自力で登ること」が焦点。 |
| 3. コンティニュアス | 長大な岩稜・岩壁 | 複数ピッチの連続。スピードと効率が求められ、役割分担などの戦術が加わる。 |
| 4. ビッグウォール | 数百〜千メートルの壁 | 壁上での生活を伴う。荷揚げや人工登攀も許容され、「完登」が重視される。 |
| 5. アルパイン | 高山帯の岩雪氷 | 気象や雪崩のリスクが加わる。安全確保のためのギア使用が広く認められる。 |
| 6. スーパーアルパイン | 困難な高所・極地 | 5をさらに過酷にしたもの。少人数・軽量装備での「スタイル」が問われる。 |
| 7. エクスペディション | 8000m峰など | 極限環境。生存が最優先され、酸素、固定ロープ、大量の物資投入が許容される。 |
そこで彼が提示した核心的なロジックがこちらです。
「ゲームのルールは、登攀の困難さを維持し、ときにはそれを高めるために考案されている。なぜなら、テクノロジーによって登攀が容易になりすぎれば、ゲームそのものが消滅してしまうからだ。」
多くのスポーツは「いかに効率よく勝つか」を競いますが、登山は逆に「いかに効率(テクノロジー)を制限するか」を競うという逆説を孕んでいます。 ヘリコプターで山頂に降り立てば「移動」としては完璧ですが、「登山」というゲームとしては破綻します。テハダ=フローレスは、登山者が自らに課す「制約」こそが、登山の創造性そのものであると見抜いていました。
下位のゲームほどルールは厳格になる
彼は、登攀のスケール(標高や日数)が小さくなるほど、ルールが厳しくなるという法則を導き出しました。
「エベレストでは酸素を使っても許されるが、地元のボルダリングエリアで梯子を使えば、それはもはやゲームではない。」
これは「環境の厳しさとルールの厳しさは反比例する」という法則です。
- 極地登山: 生き残ることが最優先されるため、固定ロープや酸素といったテクノロジーの使用が容認されやすい。
- ボルダリング: 身体能力のみを試す純粋なゲームであるため、わずかな道具の使用も「ズル」と見なされる。
この視点は、現代のフリークライミングにおける「チョークの使用」や「ボルトの設置」に関する論争を理解する上でも、今なお強力なフレームワークを提供しています。
「不確実性」という報酬
テハダ=フローレスは、ゲームが成立するための絶対条件として「不確実性(Uncertainty)」を挙げています。
「もし結果が完全には予測できないのであれば、そこにはゲームが存在する。しかし、もし結果が事前に保証されているのであれば、それは単なる労働か、あるいは観光に過ぎない。」
現代の登山は、GPS、詳細なトポ、高精度の気象予報によって「不確実性」が削り取られ続けています。テハダ=フローレスの理論に照らせば、それは「登山の脱ゲーム化(労働化)」を意味します。
彼がこのエッセイで真に伝えたかったのは、私たちが山で求めているのは「頂上という結果」ではなく、「自分の選択によって結果が左右されるというヒリついたプロセス」なのだ、ということでしょう。
総括:時代を超えた「良心」
『クライマーが演じるゲーム』は、単なるマニュアルではなく、クライマーが自らの行為を正当化するための「倫理的鏡」です。
テクノロジーが進化し続ける現代において、「何を使わないか」を決めることは、自分自身のクライミングの価値を決めることと同義です。彼は、登山を「高尚な精神活動」という神話から引き剥がし、「自らルールを決める遊び」という人間的な次元に落とし込むことで、逆にその自由と責任を強調したのです。
現代の「クライマーが演じるゲーム」
リト・テハダ=フローレスの理論をさらに一歩進め、「SNS時代の登山」や「インドアクライミング(ジム)」という現代的な文脈に当てはめて考察してみましょう。
インドアクライミング:究極に純化された「技術ゲーム」
テハダ=フローレスの分類を借りれば、現代のボルダリングジムは、かつての「ボルダリング・ゲーム」をさらに純化させた「ラボラトリー(実験室)・ゲーム」と言えます。
- ルールの固定化: 自然の岩場では「どこをホールドとするか」という曖昧さ(不確実性)がありますが、ジムでは色が指定され、ルールが完全に視覚化されています。
- リスクの排除: 墜落の恐怖という「生存のゲーム」の要素をマットによって最小限に抑えることで、純粋に「身体操作の限界」に挑むゲームへと特化しました。
これはテハダ=フローレスが説いた「制約を強めることでゲーム性を高める」というロジックの極致です。リスクを減らした分、ムーブの難易度を極限まで引き上げるという進化を遂げたのです。
SNSと「観客」という新しいルール
テハダ=フローレスは、ゲームのルールは「クライマー自身」が自らに課すものだと定義しました。しかし、現代ではここに「SNSを通じた他者の視線」という新たな変数が加わっています。
「登攀が証明(動画・写真)されなければ、そのゲームは完遂されない」
という無言のプレッシャーが、現代のルールブックには書き加えられているかのようです。かつては自分と岩(あるいはパートナー)の間だけで完結していた「クローズドなゲーム」が、現在は世界中に開かれた「パブリックなパフォーマンス」へと変質しています。
これにより、テハダ=フローレスが重視した「個人の良心に基づくルールの選択」が、しばしば「賞賛を得るための最短距離」に取って代わられる危うさを孕んでいます。
テクノロジーによる「ゲームの崩壊」
テハダ=フローレスが最も危惧していたのは、テクノロジーの進化がゲームの難易度を「無」にしてしまうことでした。現代におけるそれは、ギアの進化だけでなく「情報の過剰供給」として現れています。
- オンサイトから「ベータフラッシュ」へ: かつて最も尊ばれたのは、一切の情報を持たずに初見で登り切る「オンサイト」でした。しかし現在では、SNSやYouTubeで事前に動画(動画ベータ)を詳細に予習し、正解を知った状態で初見完登を狙う「ベータフラッシュ」が一般化しています。
- 「解読」というゲームの喪失: テハダ=フローレスの理論では、不確実性こそがゲームの本質です。あらかじめ動画で「解答」を得てから岩に向かう行為は、パズルの答えを見ながらピースをはめる作業に似ています。それは、自らの力でルートを読み解くという知的試行錯誤のゲームを、自ら放棄しているとも言えるのです。
効率的に「完登」という結果を手に入れるためのベータが、皮肉にも登山を「不確実な冒険」から「予定調和の確認作業」へと変えてしまう。この現代的な矛盾をどう受け止めるかも、今のクライマーに課された新しいルールと言えるでしょう。
結論:私たちが今、選ぶべき「ゲーム」とは
テハダ=フローレスの論考を現代で読み直す意義は、「なぜ自分はこの山(壁)に登るのか?」という問いに立ち返ることにあります。
もし私たちが、あまりに便利な道具や情報に頼りすぎていると感じるなら、それはゲームの難易度を下げすぎて「観光」や「作業」に貶めているのかもしれません。 あえてスマホを置き、あえて古いトポを頼りに、あるいはトポすら持たずに岩に向かうこと。それはテハダ=フローレスが提唱した「ゲームとしての登山の尊厳」を取り戻す行為に他なりません。
コメント