
「アウトドアの定番といえば、シェラカップ」。
それは微笑ましいステレオタイプです。いまどき山でバックパックの外にあの「すり鉢型の金物」をカチャカチャと鳴らし、誇らしげにぶら下げて歩く人は随分と少なくなりました。
とはいえ、姿を消したわけではありません。テント場で荷を解けば、しばしばバックパックの奥から出現します。さらに言えば、アウトドア関連のイベントやキャンペーンのノベルティとして、未だに判で押したようにシェラカップが配られています。そんな光景を目にするたび、私はつい「またか」と苦笑します。
私はどうもあの器と親しくなれません。皆がこぞってあれを山へ連れ出すのを見るにつけ、「果たして、本当に使いやすいのだろうか」と、首を傾げます。もちろん、世の輝かしい定番ギアを否定するほど傲慢ではありませんが、私のようなはぐれ者が一人くらい、ひっそりと「ロッキーカップ(寸胴型)」に味方したところで、山の神様も咎めはしないでしょう。
シェラカップがもたらす、あの微かな緊張感について

小さなゴトクの上に、底の狭いシェラカップを乗せたときのあの不安定さを、どう表現すればよいのでしょうか。それはまるで、薄氷の上で爪先立ちをしているようなものです。不整地や、限られたテントの土間で熱いスープをひっくり返すリスクは、山行におけるささやかな絶望を意味します。
そして何より、あの「口当たり」に対する違和感が拭えません。
シェラカップに口をつけて傾けると、液体は広がった縁に沿って、予想外の角度で私の口角を脅かしてきます。「こぼれるかもしれない」という微かな緊張感を強いられながらすするコーヒーは、どうにも心を凪いではくれないのです。
冷静に考えてみれば、私たちが日常で愛用している湯呑みも、長年使い込んだマグカップも、すべては垂直に近い壁を持つ「寸胴型」です。道具というものは、人間の自然な感覚の延長線上にあるべきでしょう。山の上だからといって、わざわざ人間のほうが、すり鉢状の器に口の形をすり寄せていくというのは、どうにも滑稽に思えてならないのです。
思想のシェラカップ、実用のロッキーカップ

少しばかり、歴史を紐解いてみましょう。
ご存知の通り、シェラカップはアメリカの自然保護団体「シエラクラブ」の会員証として生まれました。自然を愛する者の象徴としての、あの美しいすり鉢型です。それに対し、より過酷な環境での実用的なクッカーとしての側面を押し出し、後発としてアメリカで誕生したのが、底が広く深い「ロッキーカップ」でした。
実は私自身、かつてはこのオリジナルのロッキーカップを所有し、愛用する一人でした。使い込まれたステンレスの鈍い輝きには格別な愛着があったものの、時が経ち、チタンという素材の軽さと堅牢さに魅了された私は、あろうことか「断捨離」という現代的な名目のもとに、そのオリジナルを手放してしまいました。
少しばかりの感傷はありましたが、山を歩く者にとって「軽さ」という引力は時に残酷なものです。それでも、あの「寸胴型の系譜」に対する私の忠誠心までが失われたわけではありません。
寸胴型がもたらす「日常の延長」という安心
深さがある寸胴型は、スープなどをなみなみと注いでも表面が波立ちにくく、重心が底に落ち着いています。顔の高さまで持ち上げる所作そのものに、焦りが生まれません。アウトドア愛好家が実用主義の道具として重宝したのもうなずける、飾り気のない堅実さがそこにはあります。
日常の安心感を、そのままバックパックに詰め込んで持ち運べる。これこそが、私が寸胴型を手放せない最大の理由です。
廃盤の名品「UNIFLAME TITAN MUG 260」の密かな企み

とりわけ、私がアウトドアでのコーヒー用に愛用してやまないのが「UNIFLAME TITAN MUG 260」。元祖ロッキーカップよりかなり小ぶりで、取っ手はフレームではなく板状です。
惜しまれつつもカタログから姿を消してしまった廃盤品ですが、この器の絶妙なサイズ感とフォルムには、職人の執念すら感じます。260mlという容量は、多すぎず少なすぎず、山頂で冷めないうちに飲み干すのに丁度よい塩梅なのです。
チタン特有の鈍い光沢は、同じチタン製のエバニュー「Ti Tea pot 500」とも調和してくれます。
そして、ここで一つ、ささやかなハックを披露させてください。
バックパックに押し込まれたカップラーメンは、とかく周囲の圧力に負けて容器がひしゃげてしまいがちです。しかし、このTITAN MUG 260をカップラーメンの底面に被せるようにスタッキングすると、堅牢なチタンの壁が脆弱なパッケージをしっかりと保護する鎧となります。

そして何より美しいのは、マグ自体がカップラーメンの底と同化し、バックパックの中でまるで「姿を消す」ことです。そこに残るのは、わずかに突き出た持ち手だけ。この理にかなった一体感を発見したときには快哉を叫びました。すり鉢状のシェラカップでは、到底味わえないカタルシスです。
終わりに:万人の正解と、自分にとっての最適解

誤解のないように申し添えますが、「定番である」「皆が使っている」という事実は、決して軽んじるべきものではありません。それは無数の登山者たちが過酷な環境でテストを繰り返し、容赦のない淘汰を生き残ってきたという、極めて強固で信頼に足る証左だからです。何を信じるべきか迷ったならば、まずは先人たちの集合知である定番を手に取るのが、最も理にかなった選択であると言えるでしょう。
しかし、万人の正解が、必ずしも自分の手のひらや唇の形にまでぴったりと寄り添ってくれるとは限りません。
どこかで微かな違和感を覚えたとき、私たちは「皆が使っている」という大いなる安心感を一度脇に置き、自分自身の求める機能、あるいは自然の中でどう在りたいかという美学や哲学と対峙することになります。そうして自らの理屈に従って選び取った道具は、もはや誰かの借り物ではなく、過酷な環境において自分を根底から支える確かな慰めとなってくれるはずです。
もしあなたが、シェラカップの縁からこぼれそうになるコーヒーに微かな緊張を強いられたことがあるのなら。次はぜひ、ご自身の求める機能と美学に従って、寸胴型の器を手に取ってみてください。
きっとそこには、薄氷の上ではない、どっしりとした大地の安心感が待っているはずです。

コメント