登山の「自己責任論」と「受益者負担」が行き着く先:国家が巨大なサブスクになる日

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下界では初夏の陽気で半袖が心地よい5月ですが、ひとたび標高3000メートルの稜線に出れば、そこは一瞬で「厳冬期」が牙を剥く別世界です。

今年のGWも、この時期特有の過酷な気象条件のもとで、痛ましい遭難事故が報じられました。そして案の定というべきか、ヤフーニュースなどのコメント欄には、いつもの光景が広がっています。

ごく稀に「あのルートでこの時期なら、こういう判断ミスが致命傷になったのではないか」という、熟練者による鋭い「インシデント・レポート」が混ざっており、それは他山の石として大変勉強になるのですが……大半を占めるのは、登山の恐ろしさや現場の複雑さを知らない方々からの「山は道楽!」「救助費用は全額自己負担にしろ!」という、想像力を欠いた辛辣な言葉の石礫です。読むだけで少し胃が痛くなってきますね。

しかし、玉石混交のコメント欄に感情を揺さぶられる前に、彼らがなぜそこまで激しく遭難者を叩くのか、その「論理の矛盾」と「社会的な危うさ」について、少し立ち止まって考えてみたいと思います。

「クソリプ」の正体は、安全圏からの防衛本能

山の不確実性を知らない人々にとって、わざわざ過酷な環境へ赴きリスクを背負う行為は、理解の範疇を超えています。彼らが遭難者を激しく非難する根底には、「自分は絶対にそんな危険な真似はしないから安全だ」と、自分自身に言い聞かせて安心したい心理(公正世界誤謬)が働いています。

つまり、あの冷酷な言葉の数々は、単なる悪意というよりも「自分の理解できない恐怖」に対する防衛本能です。自分たちの暮らす街の論理をそのまま山に持ち込んでいるだけなので、これはもう「別世界の言語」としてノイズキャンセリングし、稀に混ざる有益な専門的考察だけを静かに拾い上げるのが、精神衛生上もっとも正しい作戦と言えるでしょう。

「公正世界誤謬」という心の防衛本能
心理学に「公正世界誤謬(こうせいせかいごびゅう)」という言葉があります。「この世界は公正であり、悪い結果には必ず被害者側にも悪い原因があるはずだ」と思い込む認知バイアスです。理不尽な事故のニュースを目にしたとき、人は「明日、自分にも起きるかもしれない」と恐怖します。その不安を打ち消すために、「あの人が特別に無謀だったからだ」と無理やり理由をつけて被害者を叩き、自分の心の平穏を保とうとする防衛本能が働きます。

街の救急車には文句を言わないという「ダブルスタンダード」

彼らが好んで振りかざすのが、「個人の道楽なのだから、救助費用は全額自己負担(受益者負担)にすべきだ」というロジックです。一見もっともらしく聞こえますが、少し想像力を働かせれば、この主張がいかにダブルスタンダードであるかが分かります。

もし仮に「今日から街中での事故や病気に対する救急車の出動も、完全な受益者負担(実費請求)にします」というルールが適用されたらどうなるでしょうか。日々の不摂生が招いた生活習慣病や、うっかり転倒した際の救急搬送に「はい、10万円です」と請求されたら、一番「そんな殺生な!税金を払っているのに!」と顔を真っ赤にして怒るのは、おそらくコメント欄で自己責任論を叩きつけている方々です。

街中での事故や病気に対しても、莫大な税金や医療保険という社会的なセーフティネットが使われています。しかし、彼らはそれに無自覚です。山の遭難だけが「ヘリ出動〇〇万円」と可視化されやすいため、格好の攻撃対象になっているに過ぎません。

離島へのハガキが85円で届く意味

この矛盾は、日本の優れた公的インフラである「郵便制度」を例に出すとさらに際立ちます。

日本全国どこへでも、たとえ絶海の孤島であっても、街中と同じ数十円の切手一枚でハガキが届きます。これは公的インフラにおける「ユニバーサルサービス(あまねく公平に提供されるべき基礎的サービス)」という理念が機能しているからです。

もし自己責任論者たちの「受益者負担」の理屈を社会全体に厳密に適用するならば、「好きこのんで離島に住んでいるんだから、船代や飛行機代の輸送コストを上乗せして、1通3000円払え!」とならなければ筋が通りません。雪国の除雪費用も全額自己負担にしろという極論に行き着きます。

でも、そうはならない。なぜなら、現代社会は都市部が地方のインフラコストをならし、健康な人が病気の人を支えるという「見えない相互扶助」でなんとか回っているからです。

自分が恩恵を受けている相互扶助には無自覚なまま、自分がやらない「登山」という領域だけを社会から都合よく切り離して攻撃する。彼らの言う「自己責任」とは、社会のあり方を問う議論などではなく、単なる「自分の理解が及ばない他者への攻撃」を正当化するための後付けの理屈なのです。

国家が「巨大なサブスク」になる日

私が本当に恐ろしいと感じるのは、ネットの匿名コメントの存在自体ではありません。近年、社会の舵取りをする「為政者」の方々までが、この「受益者負担」という言葉を安易に口にし始めていることです。

税金の使い道について、あーだこーだと文句を言われ、異なる立場間で対話をし、時に反発を受けながらも「社会全体にとっての利益」を見出して合意形成を図るのが、本来の「公(おおやけ)」の仕事です。

しかし、「受益者負担」というマジックワードを使えば、その面倒な対話のプロセスを完全にショートカットできてしまいます。「皆さんの血税を、あんな無駄なことには使わせませんよ!」というアピールは、分断を煽るポピュリズムと非常に相性が良く、票を集めやすい劇薬です。これは為政者による思考停止であり、寛容な社会を壊す片棒を担ぐ行為に他なりません。

あらゆる公的サービスに受益者負担が徹底されれば、最終的に国家や自治体は「課金した分だけサービスを提供する」という、単なる巨大なサブスクリプション・サービスへと成り下がります。

そこから真っ先にこぼれ落ちるのは、決して「無謀な登山者」だけではありません。経済的な弱者や、過疎地に住む人々、あるいは多数派と少しでも違う行動をとる人たちが、次々と「切り捨ての対象」になっていくでしょう。

そんなギスギスした息苦しい社会、とても長居はしたくありません。

まとめ:セーフティネットの境界線と、失われゆく想像力

5月の日本アルプスで起きた遭難事故は、私たちに山の恐ろしさを改めて教えてくれると同時に、今の日本社会が抱える「想像力の欠如」と「不寛容さ」という病理を、まるで鏡のように映し出しています。

「公」が守るべきセーフティネットの境界線は、一体どこにあるのか。自分とは違う他者のリスクに対して、少しでも想像力を持てる社会であってほしいなと、切に願う次第です。

四方山話
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