登山のトレーニングを『囚人』に学ぶ。極限の自重メソッド

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別の記事で、短い時間で心肺と筋肉を追い込むHIIT(高強度インターバルトレーニング)の合理性と、その根底にある哲学について触れました。

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その延長線上で、今回はもう一つの極限的なメソッド、「プリズナートレーニング」について少しばかり考えを巡らせてみたいと思います。

提唱者であるポール・ウェイド氏は、アメリカの過酷な刑務所で長きにわたる服役を経験した元囚人です。彼はその荒んだ獄中で、高齢の元SEALs(米海軍特殊部隊)隊員に教えを請い、自らの肉体のみを負荷とする究極の自重トレーニング(コンビクト・コンディショニング)を築き上げました。ウェイド氏にその真髄を託した恩師は、ついに生きてシャバの空気を吸うことなく、鉄格子の中でひっそりと息を引き取ったといいます。

ジムの器具を一切使わず、たった一人の空間で己を極限まで鍛え上げるこの「監獄の遺産」は、日本でもストイックな愛好家の間で大きな話題となりました。しかし、ここでふと、ある素朴な疑問が頭をもたげます。

この「監獄の知恵」は、果たして日本の刑務所でも実践可能なのでしょうか。

日本の刑務所という「透明な檻」

理論上は日本の刑務所内でも一部可能ですが、現実には非常に厳しい制限があると考えられます。

日本の刑務所におけるトレーニング事情を整理すると、以下のようになります。

運動の制限(時間と場所)

日本の刑務所では、自由時間に勝手に筋トレをして良いわけではありません。

  • 運動時間: 通常、1日30分程度の「運動時間」が与えられます。この時間内であれば、グラウンドや指定された場所で体を動かすことが可能です。
  • 舎房(部屋)内: 部屋の中での激しい運動は基本的に禁止されています。大きな音を立てたり、備品を器具代わりに使ったりする行為は「規律違反」と見なされ、懲罰の対象になる可能性があります。

メニューの実行可否

プリズナートレーニングの「ビッグ・シックス」を日本の監獄環境に当てはめると、以下の難関があります。

種目 日本の刑務所での
実施難易度
理由
プッシュアップ 可能(運動時間中) 道具が不要なため、運動時間にグラウンドで行う分には問題ありません。
スクワット 可能(運動時間中) 同様に場所を選ばず実施可能です。
レッグレイズ 可能(運動時間中) 床があれば可能です。
プルアップ(懸垂) 困難 鉄棒などの設備がある場所は限られており、窓の格子などにぶら下がる行為は器物損壊や脱獄の予備動作と疑われるため厳禁です。
ブリッジ 可能(運動時間中) 柔軟性や体幹トレとして見なされれば可能ですが、不審な動きと取られる場合もあります。
ハンドスタンド・
プッシュアップ
困難 壁を汚す、倒れて怪我をするリスクがある等の理由で、刑務官から制止される可能性が高いです。

食事と回復

日本の刑務所飯(麦飯など)は健康維持には適しているものの、筋肥大に必要なタンパク質や総カロリーが不足しがちです。また、プロテインなどのサプリメント摂取も当然認められていません。

結論

結論として、日本の刑務所でプリズナートレーニングを完遂するのは極めて難しいと言えます。

日本の刑務所はアメリカのそれとは異なり、規律と静粛が極めて重視されます。囚人が勝手に「強くなるための特訓」をすることは、秩序を乱す行為として制限されるのが実態です。

閉鎖空間が促す「精神の自家発電」

人間の精神とは不思議なもので、物理的な外への扉を固く閉ざされると、今度は内側へ向かって広大な宇宙を開拓し始めます。

ジェノヴァの牢獄に囚われたマルコ・ポーロが、狭い石壁の中で『東方見聞録』という果てしない世界地図を口述したように。あるいは、借金と不遇の末に投獄されたセルバンテスが、獄中の暗がりで『ドン・キホーテ』の誇り高き遍歴を幻視したように。

彼らにとって監獄は、社会からの強制的な断絶であると同時に、世俗の雑音を排し、自らの内面だけでエネルギーを創り出す「自家発電のシェルター」として機能したのでしょう。

アルピニストの自発的な「投獄」

翻って、先鋭的なアルピニストの営みを眺めてみると、これもある種の「自発的な投獄」に似ていることに気づかされます。

冬山の窮屈なテントや、週に数回通うボルダリングジムの、ホールドに制限された狭い壁面。アルピニストはわざわざ厳しい環境に身を置き、重い登山靴の制約を受け入れ、酸素の薄い不自由な時空へと自ら足を踏み入れます。

なぜ、日本のアルピニストたちは世界の峻険なピークで、時として特異なまでの強さを発揮するのでしょうか。飛躍を恐れずに言えば、あの刑務所にも通底する、日本社会特有の「息苦しさ」や「微細なルールの網の目」が、巨大なバネとして機能しているからではないでしょうか。

まとめ:地球という「青い監獄」にて

プリズナートレーニングが教えてくれるのは、鉄格子の内側であっても、自宅の床の上であっても、「自分を律する意志さえあれば、そこは自由の高みへの出発点になる」という、至極真っ当な真理です。

地球という名の、美しくも逃げ場のない限られた空間。

私たちは皆、重力や時間という決して逃れられないルールに縛られたプリズナー(囚人)であり、同時にそこから独自のルートを開拓しようと足掻くクライマーでもあります。

自由とは、広々とした場所で与えられるものではなく、不自由な隙間から自らの熱で生み出すもの。

そんな思いを胸に、目標とする頂き(あるいは、体重計のシビアな数値)に向かって、今日もしずしずと自重に抗うことにいたしましょう。

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