岳人必読、テハダ=フローレスの「クライマーが演じるゲーム」レビュー

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リト・テハダ=フローレス(Lito Tejada-Flores)が1967年に発表したエッセイ『クライマーが演じるゲーム(Games Climbers Play)』は、登山という行為を「スポーツ」や「冒険」といった曖昧な言葉で片付けるのではなく、「ルールに基づいたゲーム」として再定義した画期的な論考です。

その鋭い洞察を引用しつつ、その本質について論評します。

温故知新「クライマーが演じるゲーム」

登山の本質は「困難さの維持」にある

テハダ=フローレスは、登山のスタイルを「ボルダリング」から「エベレスト遠征」まで7つのカテゴリーに分類しました。

ゲーム名 主なフィールド ゲームのルール(制約と特徴)
1. ボルダリング 小さな岩、ジム 最も厳格。道具による補助を一切排除し、純粋に身体能力のみを試す。
2. クラッグ 数十メートルの岩壁 1ピッチの登攀。確保技術は使うが、あくまで「自力で登ること」が焦点。
3. コンティニュアス 長大な岩稜・岩壁 複数ピッチの連続。スピードと効率が求められ、役割分担などの戦術が加わる。
4. ビッグウォール 数百〜千メートルの壁 壁上での生活を伴う。荷揚げや人工登攀も許容され、「完登」が重視される。
5. アルパイン 高山帯の岩雪氷 気象や雪崩のリスクが加わる。安全確保のためのギア使用が広く認められる。
6. スーパーアルパイン 困難な高所・極地 5をさらに過酷にしたもの。少人数・軽量装備での「スタイル」が問われる。
7. エクスペディション 8000m峰など 極限環境。生存が最優先され、酸素、固定ロープ、大量の物資投入が許容される。

そこで彼が提示した核心的なロジックがこちらです。

「ゲームのルールは、登攀の困難さを維持し、ときにはそれを高めるために考案されている。なぜなら、テクノロジーによって登攀が容易になりすぎれば、ゲームそのものが消滅してしまうからだ。」

多くのスポーツは「いかに効率よく勝つか」を競いますが、登山は逆に「いかに効率(テクノロジー)を制限するか」を競うという逆説を孕んでいます。 ヘリコプターで山頂に降り立てば「移動」としては完璧ですが、「登山」というゲームとしては破綻します。テハダ=フローレスは、登山者が自らに課す「制約」こそが、登山の創造性そのものであると見抜いていました。

下位のゲームほどルールは厳格になる

彼は、登攀のスケール(標高や日数)が小さくなるほど、ルールが厳しくなるという法則を導き出しました。

「エベレストでは酸素を使っても許されるが、地元のボルダリングエリアで梯子を使えば、それはもはやゲームではない。」

これは「環境の厳しさとルールの厳しさは反比例する」という法則です。

  • 極地登山: 生き残ることが最優先されるため、固定ロープや酸素といったテクノロジーの使用が容認されやすい。
  • ボルダリング: 身体能力のみを試す純粋なゲームであるため、わずかな道具の使用も「ズル」と見なされる。

この視点は、現代のフリークライミングにおける「チョークの使用」や「ボルトの設置」に関する論争を理解する上でも、今なお強力なフレームワークを提供しています。

「不確実性」という報酬

テハダ=フローレスは、ゲームが成立するための絶対条件として「不確実性(Uncertainty)」を挙げています。

「もし結果が完全には予測できないのであれば、そこにはゲームが存在する。しかし、もし結果が事前に保証されているのであれば、それは単なる労働か、あるいは観光に過ぎない。」

現代の登山は、GPS、詳細なトポ、高精度の気象予報によって「不確実性」が削り取られ続けています。テハダ=フローレスの理論に照らせば、それは「登山の脱ゲーム化(労働化)」を意味します。

彼がこのエッセイで真に伝えたかったのは、私たちが山で求めているのは「頂上という結果」ではなく、「自分の選択によって結果が左右されるというヒリついたプロセス」なのだ、ということでしょう。

総括:時代を超えた「良心」

『クライマーが演じるゲーム』は、単なるマニュアルではなく、クライマーが自らの行為を正当化するための「倫理的鏡」です。

テクノロジーが進化し続ける現代において、「何を使わないか」を決めることは、自分自身のクライミングの価値を決めることと同義です。彼は、登山を「高尚な精神活動」という神話から引き剥がし、「自らルールを決める遊び」という人間的な次元に落とし込むことで、逆にその自由と責任を強調したのです。

現代の「クライマーが演じるゲーム」

リト・テハダ=フローレスの理論をさらに一歩進め、「SNS時代の登山」や「インドアクライミング(ジム)」という現代的な文脈に当てはめて考察してみましょう。

インドアクライミング:究極に純化された「技術ゲーム」

テハダ=フローレスの分類を借りれば、現代のボルダリングジムは、かつての「ボルダリング・ゲーム」をさらに純化させた「ラボラトリー(実験室)・ゲーム」と言えます。

  • ルールの固定化: 自然の岩場では「どこをホールドとするか」という曖昧さ(不確実性)がありますが、ジムでは色が指定され、ルールが完全に視覚化されています。
  • リスクの排除: 墜落の恐怖という「生存のゲーム」の要素をマットによって最小限に抑えることで、純粋に「身体操作の限界」に挑むゲームへと特化しました。

これはテハダ=フローレスが説いた「制約を強めることでゲーム性を高める」というロジックの極致です。リスクを減らした分、ムーブの難易度を極限まで引き上げるという進化を遂げたのです。

SNSと「観客」という新しいルール

テハダ=フローレスは、ゲームのルールは「クライマー自身」が自らに課すものだと定義しました。しかし、現代ではここに「SNSを通じた他者の視線」という新たな変数が加わっています。

「登攀が証明(動画・写真)されなければ、そのゲームは完遂されない」

という無言のプレッシャーが、現代のルールブックには書き加えられているかのようです。かつては自分と岩(あるいはパートナー)の間だけで完結していた「クローズドなゲーム」が、現在は世界中に開かれた「パブリックなパフォーマンス」へと変質しています。

これにより、テハダ=フローレスが重視した「個人の良心に基づくルールの選択」が、しばしば「賞賛を得るための最短距離」に取って代わられる危うさを孕んでいます。

テクノロジーによる「ゲームの崩壊」

テハダ=フローレスが最も危惧していたのは、テクノロジーの進化がゲームの難易度を「無」にしてしまうことでした。現代におけるそれは、ギアの進化だけでなく「情報の過剰供給」として現れています。

  • オンサイトから「ベータフラッシュ」へ: かつて最も尊ばれたのは、一切の情報を持たずに初見で登り切る「オンサイト」でした。しかし現在では、SNSやYouTubeで事前に動画(動画ベータ)を詳細に予習し、正解を知った状態で初見完登を狙う「ベータフラッシュ」が一般化しています。
  • 「解読」というゲームの喪失: テハダ=フローレスの理論では、不確実性こそがゲームの本質です。あらかじめ動画で「解答」を得てから岩に向かう行為は、パズルの答えを見ながらピースをはめる作業に似ています。それは、自らの力でルートを読み解くという知的試行錯誤のゲームを、自ら放棄しているとも言えるのです。

効率的に「完登」という結果を手に入れるためのベータが、皮肉にも登山を「不確実な冒険」から「予定調和の確認作業」へと変えてしまう。この現代的な矛盾をどう受け止めるかも、今のクライマーに課された新しいルールと言えるでしょう。

クライミング用語の「ベータ(Beta)」とは、ルートの攻略情報(ホールドの順序やムーブのコツ)を指します。語源は、かつてクライマーが自身の登りを「ベータマックス」のビデオテープに記録して仲間に共有したことに由来します。

結論:私たちが今、選ぶべき「ゲーム」とは

テハダ=フローレスの論考を現代で読み直す意義は、「なぜ自分はこの山(壁)に登るのか?」という問いに立ち返ることにあります。

もし私たちが、あまりに便利な道具や情報に頼りすぎていると感じるなら、それはゲームの難易度を下げすぎて「観光」や「作業」に貶めているのかもしれません。 あえてスマホを置き、あえて古いトポを頼りに、あるいはトポすら持たずに岩に向かうこと。それはテハダ=フローレスが提唱した「ゲームとしての登山の尊厳」を取り戻す行為に他なりません。

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